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創業320年の鰹節専門店 「だし」再発見のブランド戦略
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I お客様とにんべん

『創業320年の鰹節専門店 「だし」再発見のブランド戦略』
[著]高津伊兵衛 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間23分
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一章

三二〇年、江戸からの歴史を辿る


創業三二〇年を築いた「三つの革新」


 株式会社にんべんは、令和元年(二〇一九)に創業三二〇年を迎えました。創業は元禄一二年(一六九九)で、初代髙津伊兵衛が江戸・日本橋で戸板を並べて鰹節、干物、雑穀などを売ったことに始まります。


 以来三二〇年間、よい時期もあれば大変な時期もありました。それでも長く続けて来られたのは、江戸時代に取り組んだ三つの革新が大きいと思います。「現金掛値なし」「商品券」「鰹節製造技術の革新」です。


 まずひとつ目の「現金掛値なし」という商売は、越後屋(現在の三越)の初代、三井高利が最初に始めたものとされ、鰹節問屋としては初代髙津伊兵衛が最初と言われています。


 当時は、商品の代金を盆と暮れにまとめて回収する掛売りが一般的でした。また商品に定価はなく、お客様と相対で値段を取り決めていました。こうした商習慣を改め、商品それぞれに正価を定め、その場で商品と代金を交換する新しい商売のスタイルがこの時代に江戸の町で生まれたのです。初代髙津伊兵衛は、この先進的な商法を採り入れ、これが江戸の人びとに支持されて鰹節専門店として大きく発展する基礎を築きました。


 二つ目の「商品券」は、江戸後期にあたる天保年間、一八三〇年代に六代目髙津伊兵衛が始めたものです。お客様には代金と引き換えに鰹節と交換できる商品券を渡し、お客様は好きな時に商品券を店に持ってくれば、いつでも鰹節と交換できる仕組みです。代金を預かった時点では商品を渡していませんから、実際に鰹節を売る前に現金が手元に入ることになります。この仕組みの導入によって、店のキャッシュフローが飛躍的に向上したのです。


 にんべんより前の時代にも、歴史のある和菓子屋で商品切手と呼ばれるものを発行していた例があるようですが、六代目髙津伊兵衛は、銀製商品券の発行というアイデアで信用を担保し、商品券を広く普及させることに成功しました。万一鰹節と交換できなくなったとしても銀の価値が担保されているので、お客様は安心して商品券を購入してくれたのだと思います。


 ただ、銀製商品券の発行には銀の価値に加えて鋳造の手間がかかりますから、この時点ではキャッシュフローの改善はあまり期待できません。商品券の流通量が増えて一定の信用が得られると、すぐに紙の商品券に切り替えているあたりは、六代目髙津伊兵衛の商売に対する鋭い洞察があってこその革新だったと言えるでしょう。


 三つ目の「鰹節製造技術の革新」は、幕末から明治期にかけて成立した本枯鰹節の製法確立です。鰹節の表面に繰り返しカビを付けると、品質を劣化させる悪いカビを防ぐばかりでなく、水分がさらに減少して日持ちが向上するうえ、香りもよくなります。繰り返しカビが育つ過程で鰹節に含まれる脂肪を分解するため、澄んだきれいなだしが引けるようになります。


 カビ付けの繰り返しによる鰹節の品質向上は、偶然から見出されたものでした。にんべん創業当時の鰹節は、悪いカビを防ぐ目的で一回だけカビ付けしたものが主流でした。しかし大坂から江戸への長距離輸送では途中でカビが育って表面をびっしり覆ってしまうことも多かったのではないでしょうか。江戸の鰹節商人は、表面のカビを払って天日に干す作業を繰り返しているうちに、元の鰹節とは違う優れた風味が生まれてくることを発見します。これを製法として技術的に確立し、安定的に作れるようにしたものが本枯鰹節でした。


 本枯鰹節は江戸の人びとの嗜好を捉え、その特徴的な風味や味わいは、やがて関東の味の基本になっていきます。江戸の鰹節問屋から得た情報をもとに本枯鰹節の製法を確立したのは西伊豆の鰹節職人でしたが、にんべんはこの新しい製法によって作られた鰹節の品質的優位性に注目し、付加価値の高い商品として率先して江戸の町に広めていったのです。

無一文から始めた初代髙津伊兵衛


 最初に述べたように、にんべんは初代髙津伊兵衛が、日本橋のたもとに戸板を並べて鰹節や干物、雑穀などを売ったことに始まります。


 初代髙津伊兵衛は幼名を伊之助と言い、現在の三重県四日市に生まれました。父は髙津与次兵衛と言い、雑穀・油・干鰯などを製造販売する店を営んでいました。次男だった伊之助は、一二歳で江戸・小舟町にある油屋太郎吉の店に、丁稚奉公に出されます。


 油屋太郎吉の店では乾物や雑穀などを扱っており、伊之助はここで商売の基本を学びます。勤勉実直な伊之助はすぐに頭角を現し、一九歳の時には商才が認められて早くも主人の名代として京都や大坂へのぼるまでに出世しました。


 ところが若くして出世した伊之助は、同輩や先輩たちの妬みを買って激しい嫌がらせを受けるようになります。また店が繁盛するにつれて、主人は贅沢に溺れていきました。これを諫言した伊之助は主人からも疎まれるようになり、結局、伊之助は二〇歳で店を出ています。


 独立して店を借りるお金がなかった伊之助は、青物町の出居衆(商家に奉公する出稼ぎ人)の一人として四日市土手蔵あたりに戸板を並べ、仕入れた商品を売る商いを始めます。元禄一二年(一六九九)のことでした。この年を、にんべんは創業年としています。


 伊之助が商売を始めた場所は、現在、野村證券の日本橋本社があるあたりです。伊之助が商売を始めた四日市土手蔵あたりは魚河岸に近く、周辺に練り物屋、乾物屋、海苔屋などが軒を連ねる、いまで言う場外市場のような場所だったと思います。そこで鰹節や干物を販売したのが、にんべんの原点になります。


 にんべんが商売を始めた元禄年間は、江戸の人口が増え、江戸時代の中でも最も経済的に豊かな時代でした。無一文から商いを始めた伊之助は、食べるものも切りつめながら商売に励み、五年間で二〇〇両以上を蓄えます。この資金をもって宝永元年(一七〇四)、豪商たちが軒を並べる江戸最大の問屋町、小舟町三丁目に鰹節問屋を開業しました。


 翌宝永二年(一七〇五)には名を伊兵衛と改め、店の屋号を「伊勢屋伊兵衛」と定めます。出身地が三重県四日市、つまり伊勢だったので「伊勢から来た伊兵衛」という意味です。当時の江戸には伊勢商人が多く、「伊勢屋」の屋号を持つ店がたくさんありました。他の伊勢屋と区別するため、名前の「伊兵衛」を屋号に加えたのでしょう。

「伊勢屋」「伊兵衛」と、どちらも人偏が付く「伊」で始まることから生まれたのが、現在に続く「カネ人偏」のマークです。人偏の「イ」に曲尺を表すの記号を加え、「商売を堅実に」「物事をはかる」といった意味を込めたものと言われています。


 当初は「伊勢屋」と呼ばれていましたが、やがて暖簾に掲げた「カネ人偏」の印から「にんべん」「鰹節のにんべん」「にんべんの店」などと呼ばれるようになっていきます。現社名の「株式会社にんべん」は、江戸時代からお客様に親しまれてきた「にんべん」の呼び名に由来しています。「にんべん」は、お客様に名付けていただいた社名と言えるのかもしれません。


お客様も店も喜んだ「現金掛値なし」のシステム


 初代髙津伊兵衛が店を始めた頃は、ちょうど鰹節がだしを引くための調味料として普及しはじめた時期でした。粗悪品を高値で売る商人も多く、実直な商いをする伊兵衛の店は、江戸の人たちから高い信用を得ていきます。


 小舟町三丁目に出店してしばらく後、同じ小舟町の二丁目に家族が暮らす屋敷を一旦構えますが、享保五年(一七二〇)には日本橋の瀬戸物町に店を移し、家族も一緒にこちらに移ります。


 初代髙津伊兵衛は、瀬戸物町の新しい店に、自ら大書した「現金かけ祢那し」という看板を掲げました。初代が瀬戸物町に鰹節の専門店を開いて以後、にんべんは現在に至るまで一貫して日本橋の地で商売を続けています。瀬戸物町の店があった場所は、現在は三井不動産の商業施設「コレド室町2」になっていて、1階の通りに面した角地に、にんべん直営レストラン「日本橋だし場 はなれ」が入っています。




 初代髙津伊兵衛が売りにした「現金掛値なし」という売り方は、先に述べたように、三越の前身である三井越後屋呉服店が行ったのが始まりと言われています。


 それまで行われていた掛売りという商慣習では、商品に定価はなく、同じ品物でも、相手によって値付けが異なっていました。代金の回収も年に二回、盆と暮れにまとめて支払ってもらっていました。代金の受け取りが最も遅くなるケースでは、半年後の回収になりますから、当然貸し倒れのリスクがあります。リスクの大小は相手によって変わってきますので、リスクを織り込んだ価格で取引をしていたのでしょう。


 そうした売り方を見直し、商品と引き換えに現金をいただくように改めたのです。貸し倒れのリスクがなくなる分、価格を安く抑えることができます。同時に、誰に対しても同じ価格を提示できるようになりました。


 この売り方は、江戸の人たちに喜ばれただけでなく、にんべんにとっても商売を広げる大きなきっかけになりました。当時、鰹節を買いに来るお客様には、大きく分けて武家と町人がいました。屋敷を構える武家と違って、町人は何らかの事情で所在不明になることが多かったと思います。掛売りでは売掛金が回収できなくなるリスクがあるため、お客様の素性をある程度見定める必要がありました。


 しかし現金商売であれば、そのようなリスクがありませんから、お金さえ持ってきてもらえば誰にでも鰹節を売ることができます。それだけ幅広いお客様と商売ができるようになったのです。


 一方の武家はというと、当初こそ不払いの心配はありませんでしたが、長く続く参勤交代の制度によって次第に財政が疲弊していきます。それまでも地位を濫用した踏み倒しは幾度かありましたが、江戸時代末期には()(えん)令などでかなりの売掛金が帳消しにされたようです。初代髙津伊兵衛がそこまでの危機管理意識を持っていたかわかりませんが、「現金掛値なし」の商売によって町人を顧客として迎え入れ、マーケットを拡大したことが、後々になってリスクを分散し、経営を安定化させる重要な要因となっていきます。

同業者の嫌がらせを受け、新しい仕入れルートを開拓

「現金掛値なし」によって、店の評判を高めた初代髙津伊兵衛は、さまざまな大名家の江戸屋敷で御用商人を務めるようになります。最初に御用商人となったのは、加賀藩でした。


 きっかけは、加賀藩に出入りしていた伊勢出身の同業者に貸し付けていた資金の焦げつきでした。伊兵衛は借金返済の代わりに、加賀藩の御用商人としての権利を譲り受けたと言われています。


 加賀藩は「加賀一〇〇万石」と言われるほど広大な領地を持つ大大名です。その加賀藩の御用商人にお金を貸していたぐらいですから、すでに相当な蓄財があったのでしょう。江戸時代を研究する専門家によれば、当時の江戸は商売の競争が熾烈で、御用商人の権利争奪のような事例は頻繁にあったようです。


 加賀藩を皮切りに、にんべんは松平筑前守や松平若狭守などの屋敷にも次々と出入りするようになります。これらの屋敷では鰹節だけでなく、その他の贈答品なども併せて御用を承るようになりました。享保七年(一七二二)には、松平筑前守の嫡男や息女の婚儀に際し、鰹節のほかに青果物、菓子類、乾物類まで一括納入の大役を仰せつかったという記録が残っています。


 この頃になると、取引高は町人よりも大名をはじめとする武家が多くなっていたと思われます。当時の江戸には参勤交代制度によって諸藩大名の屋敷が設けられており、常時数千人の武士が暮らしていました。武家屋敷に納めた鰹節が相当な量にのぼったであろうことは想像に難くありません。


 特に初期の頃は大名家に対しては、「下りもの」と呼ばれる大坂経由で仕入れた上等な鰹節を納めていたようです。


 大名家にも町人にも支持された伊兵衛の商いは、やがて同業者である問屋や仲買人から妬みを買うようになります。彼らは伊兵衛に「現金掛値なし」をやめない限り、仲間から外し商品を供給しないと通告しました。


 しかし伊兵衛は、こうした動きを予期して先手を打っていました。従来の仕入れルートを経由しない新たな独自仕入ルートの開拓です。伊兵衛は問屋仲間からの通告を受ける以前から大坂や熊野などに新たな調達ルートを構築しており、問屋仲間の嫌がらせに屈することなく商売を続けることができました。いまで言う直接買い付けに近い方法だったのかもしれません。結果的に他店よりも良質の鰹節が廉価で手に入るということで、江戸の人々に大いに支持され、にんべんの評価が高まるひとつのきっかけにもなったのだと思います。

徹底した緊縮財政で窮地を乗り切った三代目髙津伊兵衛


 初代髙津伊兵衛の時代、順調に商売を拡げていったにんべんですが、二代目の時代になると一転、窮地に陥ります。


 二代目髙津伊兵衛は、初代の長男・長太郎でした。初代髙津伊兵衛が病に伏したため、享保九年(一七二四)、一二歳の若さで後を継いで襲名しています。


 若い二代目を助けるため、初代が後見人としてつけたのが万代屋清左衛門でした。ところが、その万代屋は二代目の未熟さにつけこんで因幡守との商売を奪ってしまいます。


 享保一五年、正月のことでした。初代の頃より御用を承っていた因幡守から「新年の御進物として納めた生鯛がよろしくない」という理由で生肴の御用を召し上げられてしまいます。その後しばらくして因幡守の家老、内藤十兵衛から滞納している売掛金を二〇年賦にすれば御用を再開してもよいと話をもちかけられますが、伊勢屋がこれを断ったために、すべての御用を失い、売掛金まで回収できなくなってしまいました。失った御用は、万代屋をはじめ、内藤十兵衛を懐柔していた商人衆の手に落ちたのです。


 大口取引先を失ったにんべんは、次第に経営が苦しくなっていきます。二代目が一八歳、初代髙津伊兵衛が亡くなった年のことでした。


 当時は享保の不況期で、武家も町人も倹約に努めていたため、商売は縮小の一途を辿っていました。二代目髙津伊兵衛が襲名した時に八〇〇〇両近くあった資産は、寛保二年(一七四二)には一六〇〇両ぐらいまで減っています。一八年間で資産の約八割を失った計算になります。


 商売の凋落と期を同じくするように体調を崩しがちになっていた二代目髙津伊兵衛は、次第に店の経営を弟の茂兵衛(後の三代目髙津伊兵衛)と利発な若番頭の利兵衛の二人に任せていきます。


 茂兵衛は利兵衛とともに一〇年後の店の在り方を見据え、徹底した緊縮財政に取り組みます。経費を二七品目に分け、「居役門(地代、番銭など)」は金四〇両、「噌茶門(味噌、茶、醤油など)」は金九両、「薪炭門(薪、炭など)」は金一〇両二分、「湯髪門(銭湯、髪結など)」は金六両などと、商売はもちろん、生活全般にわたって細かく出費を見定めていきました。


 冗費を見直すことで、ゼロから店を興した初代髙津伊兵衛の経営理念に立ち返り、店を再興させ、より大きな発展を目指そうとしたのです。


 この頃の茂兵衛は、夜が明けぬうちに河岸へ出向いて魚を買い付け、それが終わると大名家や取引先へ御用を尋ねてまわり、店に帰るのは夜半、というような文字通り休む間もないような日々を過ごしていたようです。

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