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(2021/11/26 追記)

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創業320年の鰹節専門店 「だし」再発見のブランド戦略
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II だし文化の日本史

『創業320年の鰹節専門店 「だし」再発見のブランド戦略』
[著]高津伊兵衛 [発行]PHP研究所


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四章

鰹節の歴史と現状


『古事記』に登場する鰹節の元祖


 鰹節は、日本人の食生活を豊かに彩ってきた食品であり、調味料としても使われてきました。本章では鰹節の歴史や、日本の食文化との関わりについて、述べていきます。


 鰹節に近いものが日本の文献に登場するのは和銅五年(七一二)、奈良時代のことです。日本最古の歴史書『古事記』に登場する「(かた)(うお)」が、鰹節の原形とされています。


 カツオを日に干しただけの簡単な干物で、春にたくさん獲れるカツオを乾燥させて保存食にしていたのだと思います。


 堅魚はそれよりずっと以前、三世紀中頃、弥生時代から古墳時代には、すでに作られていたようです。『古事記』が編纂される八世紀頃には、カツオを干す前に「煮る」という工程を加えた「()(かた)(うお)」や、煮たあとの汁を煮詰めた「堅魚煎汁(かつおのいろり)」が作られるようになっています。


 堅魚や煮堅魚は保存食でしたが、堅魚煎汁は、調味料として使われていたようです。


 カツオと日本人の関わりはさらに古い時代にまで遡ります。縄文時代の貝塚からは、カツオの骨がいくつも見つかっています。当時はそれほど遠くまで漁に出ることはできなかったはずですから、カツオは丸木舟のようなもので少し漕ぎ出せば簡単に獲れる、きわめて身近な魚だったのではないでしょうか。


 とはいっても、太平洋沿岸を黒潮に乗って北上して来るカツオは、日本近海では季節性の回遊魚で、一年中獲れる魚ではありませんでした。そこで大量に獲れた時に、保存するための方法を考えるようになったのだと思います。


 保存食としてのカツオは、租税のひとつにもなっていました。カツオが獲れる国々には、大和朝廷が堅魚や堅魚煎汁を租税の科目として定めていたことが、大宝律令や養老律令に記されています。


 特に堅魚煎汁は、味噌、醤(ひしお)と並ぶ調味料のひとつとして室町時代あたりまで重用されていたようです。カツオから作られた調味料が長く親しまれていたことが背景にあって、干したカツオからだしを引くという文化が日本に生まれてきたと考えることもできそうです。

紀伊半島で誕生した鰹節


 室町時代に入ると、単純にカツオを煮たり干したりするだけではなく、堅魚や煮堅魚を燻して乾燥させる、現在の鰹節にかなり近いものが、作られるようになってきます。囲炉裏の上に平籠を吊るし、そこにカツオを入れて熱と煙で乾燥させる「(ばい)(かん)」と呼ばれる製法の誕生です。

「焙乾」の技法は、カツオ漁が盛んな五島(現在の長崎県の五島列島)、平戸(現在の長崎県平戸市)、紀伊(現在の和歌山県と三重県南部)、志摩(現在の三重県志摩市)、土佐(現在の高知県)などに広まっていきます。各地で焙乾のための小屋が工夫されていきました。


 現在の鰹節に近いものが作られるようになったのは、江戸時代に入ってからのことです。元禄(一六八八~一七〇四)の頃、紀州印南の(じん)()(ろう)という漁師が、ナラやクヌギの薪を使い煙と熱を利用して本格的に燻しながら乾燥させる方法を考案したと伝えられています。この鰹節は「熊野節」として高い評価を得ます。鰹節の原点となる技法を確立した人物を輩出したとして、印南は「鰹節発祥の地」とされています。


 当時としては大型の船を操り、遠方まで出漁する技術を持っていた印南の漁船団は、やがて土佐沖にカツオの好漁場を見出します。甚太郎は、漁場から近い土佐沿岸に製造拠点を設けて鰹節を生産するようになりました。


 熊野節の製造技術を使った鰹節は、土佐藩の重要な産物となっていきます。ただ、消費地の大坂や京都から遠く離れているため、せっかく作った鰹節の多くは市場に届くまでにカビが生えて品質が落ちてしまっていました。


 鰹節の品質改良に取り組んだのが、甚太郎の息子、二代目甚太郎でした。先に良質なカビを生えさせて、臭いを出すような悪いカビの発生を防ぐという方法を考え出します。二代目甚太郎のアイデアは見事に的中し、土佐の鰹節は、大坂や京都はもとより、江戸への輸送にも耐えられる品質を獲得したのです。

「改良土佐節」と呼ばれるこの鰹節は、その製法を秘匿され、土佐藩と甚太郎の故郷である紀州に囲い込まれます(その後、薩摩藩がこの製法を知る印南の漁師を密かに呼び寄せ、薩摩藩でもカビ付け節が作られるようになります。この鰹節は「薩摩節」と呼ばれ、熊野節をしのいで改良土佐節に次ぐ優良品として、全国に知られるようになっていきました)。


 江戸後期になると、印南の()(さの)()(いち)という鰹節職人が、安房(現在の千葉県南部)と伊豆に改良土佐節の製法を伝えます。伊豆では改良土佐節をさらに改良し、脂肪や水分を減らした「伊豆節」を開発します。伊豆節も、改良土佐節と並んで全国で人気を得ていきます。


 秘密であったはずの改良土佐節の製法を他国に漏らした土佐与市は、晩年になって故郷の印南に思いを寄せますが、裏切り者の烙印を押されたままついに帰郷叶わず、遥か房州の地で生涯を閉じています。


 こうして江戸中期に紀州で製法が確立された鰹節は、改良を重ねながら、土佐や薩摩、伊豆や房州など各地で作られるようになっていきました。江戸後期には、土佐、薩摩、紀州の鰹節が高い評価を得ています。


 詳しくはこの後に述べますが、江戸時代の終わりから明治時代になると、伊豆で高品質の鰹節が作られるようになり、土佐、薩摩、伊豆が、鰹節の三大名産地となっていきます。

本枯鰹節を生み出した田子(伊豆)の鰹節職人


 にんべんでは、現在「本枯鰹節」と呼ばれるものは、焙乾後にカビ付けを四回以上繰り返したものと規定しています。


 現在のように、カビ付けを複数回行うようになったのは、江戸時代後期になってからのことでした。


 鰹節にカビを付ける製法は、先に述べたように、遠方の生産地から消費地に運ばれる中で考えられたものです。土佐や薩摩などで作られた鰹節は、まずは天下の台所である大坂まで運ばれます。その途中で悪性のカビが生え、大坂に着いた頃にはカビ臭くなってしまいました。


 二代目甚太郎は、これを解決するには、先に良性のカビを付ければいいのではないかと気づきます。カビといってもさまざまで、異臭のもとになるカビもあれば、品質を安定的に保ってくれるカビもあります。二代目甚太郎は、良性のカビを意図的に付ける方法を思いついたのです。


 当初行われていたのは、カビ付けを一回だけ行う「土佐一乾」「カビ付け一乾」などと呼ばれる製法でした。二代目甚太郎が考案した鰹節は、大坂では非常に高い評価を得て土佐の鰹節は最高級品との評価を得ていきます。


 しかし、江戸へ運ばれる鰹節となると、少し様子が変わってきます。土佐や薩摩で作られた鰹節は、大坂に集められたあと、船で一〇日から一カ月かけて江戸へと運ばれました。一度のカビ付けでは鰹節内部の水分がまだ多く、途中で新たなカビが育ってきます。江戸に到着してからも、蔵で保管するうちにカビが生えることがあり、その度に払い落とさなければなりませんでした。


 長距離の輸送や蔵で保管する間に、何度もカビを払い落としていたわけですが、やがてこの作業を繰り返すうちに、鰹節の品質が良くなっていることに江戸の鰹節問屋が気づきます。


 カビの作用で魚臭さが減る一方、特有の香気が生まれて風味が高まるのです。鰹節中の脂肪分も減るため、この鰹節で引いただしは、澄んだきれいなだしになります。また、水分の減少により保存性も高まりました。カビを何度も払った鰹節の人気が高まり、やがてカビ付けを繰り返した鰹節が意図的に作られるようになります。これが「本枯鰹節」のはじまりです。


 本枯鰹節の生産を担ったのは、伊豆にある田子の鰹節職人でした。伊豆では鰹節に適したカツオがよく獲れていましたから、この好条件を江戸の鰹節問屋が見逃すはずがありません。


 大消費地の江戸に近い伊豆から、大坂を経由せずに江戸に仕入れることができれば、付加価値は飛躍的に高まります。江戸の鰹節問屋は、田子の鰹節職人にカビ付けを繰り返した鰹節の製造を依頼しました。これに応える形で本枯鰹節が生まれたのです。


 言ってみれば「本枯鰹節」は、江戸の人たちが好む鰹節を大量に安定的に欲しい江戸の鰹節問屋と、それに応えられる生産力と技術を持った田子の鰹節生産者による共作のようなものです。


 現代的に見れば生産者と直接契約を結ぶ契約栽培のような関係で、これにより江戸の鰹節問屋も田子の鰹節生産者も、より上等で高値の付く鰹節を商売の中心に置けるようになりました。まさに「ウィン・ウィン」の関係です。


 もちろん、満足のいく品質の「本枯鰹節」が完成するまでには、幾度となく試行錯誤が繰り返されたことと思います。そこには江戸の鰹節問屋の資金も投じられたはずです。「本枯鰹節」は、江戸の鰹節問屋の投資によって生まれたとも言えるのではないでしょうか。


 本枯鰹節が現在と同様な完成形となったのは明治期になってからのことでした。

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