『死別の悲しみを癒す本 愛する人を亡くした時、どう生きるか』
[著]賀来弓月
[発行]PHP研究所
葬儀の意味
葬儀は離別の中で最も悲しいものです。
だから、遺族を慰め、宥めるすべもありません。
涙をとめる方法もありません。
時間の経過という悲しみを癒す助けに頼らざるをえません。
誰にとっても、葬儀はどうも居心地の悪い儀式です。
葬儀は、亡くなった人に最後のさよならを言うときです。
死別の悲しみの道をあらためて歩み始めるときでもあります。
葬儀の準備をし、葬儀に出席することによって、死という冷酷な現実を認めるときです。
葬儀から少し時間がたつと、遺族は家族のなかで死の経験をしたことを通じて、再び生き始め、人間的な成長を始めるでしょう。
葬儀に関して、一番重要なことは、死別を悲しみに直面する家族全員に関与させることでしょう。
それは悲しみを癒す上で大切なことです。
遺族をかばって、死の現実と直面させないようにすることがしばしば行われます。
それは、死別の悲しみを癒す過程である「喪の仕事」を代行してしまうことになります。
それは悲しみを抑え、抹殺するように強制することで、悲しみを癒すチャンスを奪ってしまいます。
そのような「善意」は本人の苦痛をもっと大きくするでしょう。
苦痛の感情表現を遅らせ、遺族が死の現実を受容するのを難しくします。
死を受け入れて死別の悲しみを治癒する
葬儀の一番大切な目的のひとつは、死別の悲しみを癒す過程(喪の仕事)を易しくすることです。
死が起ったという現実を受容することは、喪の仕事に大切です。
死の否認はその意味で問題です。
死の受容は、頭(知性)でなされただけでは不十分です。
心(感情)による受容がなければなりません。
頭だけによる受容は、自分を騙すことになります。
それでは、あとになって心理的な問題を招くことになりかねません。
頭だけによる死の受容は、葬儀に参加しなかったときとか、人が外国で亡くなったときとか、海難事故、飛行機事故による死で、遺体が確認できないときに起きます。
葬儀の準備に遺族をできるだけ参加させる
家族が亡くなると、いろいろなことをしなければなりません。
葬儀、火葬、埋葬の手配、親類・知人・勤め先への連絡、お坊さんの手配、死亡証明書の取得、死亡公告の掲載などです。
日本では有能でテキパキとしすぎるほどの葬儀屋が助けてくれます。
葬儀はビジネスです。
しかし、それ以上のものであることを葬儀屋にいつも覚えていてほしいものです。
葬儀屋との打合せも気持ちが動転しているときには大変です。
こういうときは喜んで世話をし、助けてくれる人がいます。
遺族の中でも、心理的に一番影響を受けていない人たちが、中心になるべきでしょう。
しかし、葬儀の準備に関与することは、遺族が死別を確実なものとして受け入れるのを、助ける効果があります。
単に傍観させるだけにしておくと、死の否認を助長します。
そんなことをさせれば、友人、親類、葬儀屋は、遺族に死別の苦痛を避ける道を選ばせることになります。
悲しんでいる人に何もそんなことをさせなくてもいいのにといわれるかもしれません。
非情に聞こえますが、絶対に必要でないかぎり、遺族を必要以上に手伝ってしまうのは避けたほうがいいのです。
そうすることによって、遺族に死別の苦痛をもっと経験させることになるからです。
死別の苦痛を経験することは、死別の悲しみを癒すのに必要だからです。
遺族のしていることを見ていると、のろくて、痛々しく、耐えがたいかもしれません。
しかし、それでも、できるだけ遺族の意思を尊重しなければなりません。
できるだけ遺族にさせる。それが遺族のためです。
遺族のほうは、当然死別の苦痛から逃れて、他人の助けを求めようとする傾向が強くなるでしょう。
遺族を強制するのはいけませんが、傍観者にしておかないで、葬儀の準備に参加させるのはいいことです。