『ルポ 外国人ぎらい EU・ポピュリズムの現場から見えた日本の未来』
[著]宮下洋一
[発行]PHP研究所
二〇一九年十一月八日、一〇〇人を超えるウェールズ市民が、ボクシングの一戦を観るかのように声を張り上げていた。目の前には拳を振り上げるファイターなどいない。血なまぐさい匂いも漂っていない。唯一、聴こえてくるのは延々と喋る男の野太い声だ。その男がシニカルな口調で敵を圧迫すると、観客は手を叩き、喜色満面の様子だった。
その男の名は、ナイジェル・ファラージ。英国のEU離脱「ブレグジット」を実現させた黒幕とも呼べる人物で、ブレグジット党の党首である。物腰が柔らかくユーモアがあり、雄弁で説得力がある。紺色のスーツに水玉のネクタイをきちっと締めた彼が、両腕を大きく開いて訴えた。
「われわれは絶対に離脱しなければならない。合意がいかなる形であろうとも、それは二〇二〇年内のどこかのタイミングで……」
私のヨーロッパ取材も、これで最後になろうとしていた。本来の着地点は、二〇一九年十月三十一日が期限とされた「ブレグジット」直後を取材し、英国内部の動向を伝えることだった。しかし、ボリス・ジョンソン首相の「合意なき離脱」も道半ばにして倒れ、一九年十二月十二日に解散総選挙に至る運びとなった。
迎えた総選挙では、結果的にジョンソン首相が六五〇議席のうち過半数を超える三六五議席を獲得し、大勝利を収めた。ブレグジットの期限は、二〇二〇年の一月三十一日。このままブレグジットは達成されるのか、それとも水泡に帰すのか。この行方を予測できる者は、取材時点ではまだ英国にはいなかった。
英国の誇りと反EU主義
英国の人口は、フランスより六〇万人ほど少ない約六六四四万人(二〇一九年六月、英国家統計局)。国家元首は女王エリザベス二世。首相は、二〇一九年七月から政権を握る保守党のボリス・ジョンソンで、就任半年で「ブレグジット」を達成した。
議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制。儀礼上、国王が議長とされるが、慣習法のひとつである「君臨すれども統治せず」の原則に従う。上院は貴族や英国国教会の主教ら約八〇〇人から成り、任期はない。下院は単純小選挙区制で選ばれ、定数は六五〇人で任期は五年とされる。
なぜ英国がEU離脱に踏み切ったのかは、さまざまな角度から検証できるが、私はこの国がヨーロッパにおいて、どのような歴史的地位を確保してきたのかを知ることで、現在の大まかな流れが摑めると思っている。
議会制民主主義発祥の地、それが英国だった。産経新聞前ロンドン支局長の岡部伸は、著書『イギリスの失敗』(PHP新書)の中で、こう述べている。
「……英国の民主主義は、革命による体制変革によってもたらされたフランスの民主主義とは違い、過去の歴史と伝統、遺産を生かし、市民によって理念ではなく『現実主義』に基づいて築かれたものだ。権力者が代わるたびに政策の振幅が大きく振れるドイツとも異なり、アングロサクソン特有の着実な進歩は、世界の7つの海を制覇し、日の沈まない帝国を造り、世界に君臨してきた民族の知恵でもあった」
英国の近現代史を振り返ってみても、ドイツとフランスが大陸に攻め込もうとも、常に敵側となって戦ってきた。岡部の言葉を借りれば、こうした大戦に負けたことのない英国は「『正義の戦い』に勝利して大陸を救った自負がある。大英帝国を築いた歴史と主権国家に対する強烈なプライドだ」ということに尽きよう。
戦後のヨーロッパ統合の歴史を見ても、国の誇りは強大で、マーガレット・サッチャー政権の時代にも反欧州の姿勢は変わらなかった。戦後の後始末として一九五二年に構築されたドイツとフランス主導の「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」への参加拒否を皮切りに、五八年の「欧州経済共同体(EEC)」と「欧州原子力共同体(EURATOM)」にも参加せず、スイスやスウェーデンなどと「欧州自由貿易連合(EFTA)」を六〇年に設立し、独自路線を進めた。
しかし、欧州市場の拡大に伴い、英国は二度もEECに加盟申請するが、拒否されてしまう。右の三つの共同体の主要機関が統一され、六七年に「欧州共同体(EC)」へと形を変え、英国は七三年にようやく加盟を実現した。ところが、わずか二年後の七五年、この国でEC加盟継続の是非を問う国民投票(賛成六七%、反対三三%)が行われていたのである。
その後も、通貨、外交、安全保障、市民権など、統合の幅を広げる構想で創設された「欧州連合(EU)」にも、英国は常に懐疑的な立場を崩さず、独自の体制を維持してきた。