『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳
[発行]二見書房
不幸な目醒め
熊沢天皇は、戦後、ある種の驚きと嘲笑をもって迎えられた。
初出は、英字新聞である。
昭和二十一年(一九四六)一月十九日付「Pacific STARS & STRIPES(以下、星条旗とする)」の一面の右下に日本人家族の写真が掲載された。
見出しに、「Says He's Emperor(わたくしが天皇です)」とある。
このタブロイド版の日刊英字新聞は、日本と韓国で無料配付された占領アメリカ軍の機関紙である。敗戦直後の昭和二十年十月、東京で創刊された。熊沢天皇は、アメリカの主要都市のほか外国ニュースが占めるその国際面に、写真入りで報じられた。
さて、その家族の写真はというと――。
和服姿の母親が椅子に坐り、幼い男児をひざに抱いている。その隣にオカッパ頭の少女が首をかしげてにこやかに微笑む。母親の真うしろに学生服姿の少年が緊張し、やや離れたうしろに、羽織袴の父親が悠然と立つ。頭はきれいに禿げあがり、鼻の下の薄い八の字ひげが、なぜか頼りなげにみえる。正月の記念写真のようだが、どこかおかしい。真正面から撮られていないからだ。写真説明は、つぎのように書いている。
〈ささやかな自営の雑貨店のまえで家族とポーズをとるこのひとは、正統な日本の天皇と認めるよう求めるヒロミチ・クマザワである。彼は、天皇家の紋章「十六弁の菊花紋」の入った着物を着ている。平民である彼の妻ヤエは、二歳になる末っ子のヨシタカ(良尊)を抱いている。ほかはヒロタカ(広尊)十三歳、ひとり娘のマサコ(雅子)八歳。この写真に欠けているのは、二十二歳になるタカノブ(尊信・シベリアに抑留中)である。彼こそ十四世紀に起きた革命の結果、六十年間、王朝は北と南にわかれて国を支配し、親から息子へと五百五十四年にわたる対立の後継者たる皇太子だ。ヒロミチは、南朝最後の統治者である後亀山天皇の直系といい、一方、ヒロヒト(昭和天皇)の家系は北朝だという〉
このひとこそ「熊沢天皇」、こと熊沢寛道であり、敗戦後、やっと晴れの舞台に登場した瞬間であった。ところがこれは、『星条旗』一紙のスクープではなかった。おなじ週、世界の週刊誌『ライフ』(同年一月二十一日号)にも、「日本の本物の天皇か?」の見出しで、〈ライフ誌特派員は、ヒロヒトの帝位を五百五十年まえの資格で皇位を要求した者を発見〉と、にぎにぎしく堂々二ページの特集である。
作家・保阪正康著『十九人の自称天皇』によれば、〈アメリカのジャーナリスト五人とGHQの将校が、名古屋市千種区にある雑貨商熊沢寛道のもとに来て、五時間にわたり取材を進め〉た、という。
『星条旗』と『ライフ』が同時取材。しかも記者たちは、「新天皇」に乾杯さえした。
後年、『画報近代百年史』は、熊沢天皇一家のうえに、裕仁天皇ご一家の写真を載せ、〈朕は神ではない〉と報じた。
昭和二十一年元旦、裕仁天皇は、「人間宣言」をした。
このあとに『星条旗』や『ライフ』が熊沢天皇を報じたのである。
二日後の『読売報知』は、はやくも問題点を明らかにした。要約すれば――、
《熊沢寛道氏(五六)は、後亀山天皇十八代の直系の後裔で南朝の正統にあたる。六百年まえの南北朝の騒乱は、南北交替で天皇をたてる条件で講和をむすんだが、足利義満によって反故にされ、いらい北朝の天皇がつづいている。南朝が正統だから、せめて寛道氏の郷里愛知県にある先祖の古墳を、皇族の墳墓と認めてほしい》
こうして熊沢寛道は、いきなり「時のひと」となった。
なぜ、いまごろ南北朝が問題なのか。だれもが訝るところだ。
鎌倉時代末期の一三三三年から室町時代にいたる一三九二年までの、足掛け六十年間を南北朝時代という。この間、日本には北と南に天皇が並立していた。熊沢寛道が問題にしているのは、この南北にわかれた両王朝の「いずれが正統か」である。
寛道は、後亀山天皇の皇胤を名乗って南朝を正統とし、北朝後小松天皇から五百六十四年間つづいた北朝を偽者として否定する。なぜならば、足利氏に全滅させられた南朝には、歴史の教科書には載らない「後南朝」の皇統がつづいていたからである。
いかにも荒唐無稽なようだが、熊沢天皇は真剣である。
天皇家が続々
愛知県丹羽郡(現・一宮市)時之島――。
JRや私鉄の駅から遠く離れた陸の孤島は、岐阜、犬山、清洲をむすぶ三角のほぼ中央に位置している。戦国時代、信長、秀吉、家康らが群雄割拠した濃尾平野の豊かな穀倉地帯である。ここを制した武将は、日本を統治した。
一宮市教育委員会が発行した『一宮市史 西成編』(昭和二十八年刊)にこうある。
〈瀬部・時之島・定水寺の三ケ所に、熊沢氏を称するものが数戸宛あり、尚瀬部の出身で尾張藩士・熊沢氏の後裔が名古屋に住して居り、以上孰れも古来十六弁の菊花を家紋としてゐたが、明治維新後は夫れぞれ菊花に因んだ紋章に改めて使用してゐる。而して各々その宗家に系図を所持してゐるが、其先祖に就ては左の如く多少の相違がある〉
ふたつばかり系図を紹介しているが、省略する。
一宮市の平成十四年度版の電話帳には、瀬部、時之島、定水寺ほか周辺に登録された熊沢姓は、百八軒をかぞえる。隣接した江南市に二十三軒、川島町で十一、稲沢市で八、岩倉市八、木曽川町七、尾西市六、大口町六、扶桑町四軒と、一宮市に集中している。ちなみに時之島では、上の熊沢家が「葵」を、下が十六弁の「菊花」を家紋にしているという。徳川家と天皇家の紋章だが、尾張といえば徳川御三家のひとつ。そのお膝元で葵の紋を無断で使えるわけがない。また天皇家の紋章にしても、戦前ならば不敬罪に問われたはずだ。
『消された皇統』の著者で地元の系図研究家・早瀬晴夫によれば、
「熊沢系図は、六十種類を超えまして、なかには正真正銘の偽物があったりするんですよ。いずれの系図にも省略があったり、架空の人物が登場したりして正統と判じかねるんです。だけどそれを理由に否定できないんです。南朝の末裔は、どこかにいるわけですから」
とまあ、やっかいな代物らしいのである。
事実、熊沢家の身分確定の闘いの歴史は、戦後に始まったわけではなかった。
明治三十七年十二月七日、瀬部の総本家・熊沢登、熊沢喜八ら八名は、当時の宮内大臣・田中光顕に「南朝遺裔適否照査之請願書」を提出した。
明治時代は、南朝復権の時代である。熊沢登らは、熊沢家が南朝の末裔かどうか調査してほしいと嘆願したのである。が、史料不備で却下され、総本家は請願を断念した。
明治三十九年、こんどは時之島の熊沢大然が帝国古跡調査会へ調査史料を提出した。「総本家」に遅れること二年。四十二歳で発起した大然の南朝史の研究は、十三年に及んだ。
曰く――。
〈家伝によれば後亀山天皇の皇孫尊儀王の御弟尊雅王〔長禄二年九月十七日薨去〕の皇子に信雅王〔時之島熊沢氏の初代〕といふが在はし、紀州熊野の奥近露村に於て成長せられ、応仁の乱には二十余歳にて西軍の山名宗全に擁せられて、南朝恢復の為京師(京都)の間に奮戦されたが、時利あらずして奥州沢村〔福島県双葉郡大堀村の一部〕に下られた。