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天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇
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ルポ・エッセイ
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第二章 天皇機関説の怪

『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳 [発行]二見書房


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主権在君の帝国憲法


 天皇機関説は、昭和ひとケタからふたケタ代に入る時代のキーワードである。


 天皇の大権は、統治の全権能の意味かどうか。すなわち天皇に属する「主権」か、それとも天皇は最高決定「機関」の長か、である。このデリケートな問題は、明治末期から大正をつうじて論争があったが、昭和十年二月、国会の場で問われることになった。


 天皇に寄せる畏敬と尊敬の念は、疑いもなく国民の等しく抱く感情である。しかし、これが学問の枠を超えて政治問題に発展し、機関説を唱えた帝大教授・()()()(たつ)(きち)博士は、感情論に屈するのである。これに熊沢問題がからむといえば、まさかと疑念をもたれるであろう。それも含めて、天皇機関説を考えてみたい。


 明治二十二年に発布された帝国憲法は、いったいどのような精神で制定されたのか。論点を明確にするために、まず昭和十年七月、伯爵・金子堅太郎が文部省の役人をまえに話した講演録『帝国憲法制定の精神』(金子堅太郎述 毎日新聞社編)を引用してみよう。

〈そもそも我が日本の憲法は、日本に二千五百有余年来継続してゐる国体といふものに基づいてでたのであつて、欧米諸国の憲法のごとく帝王の圧迫に堪へずして貴族と人民とが矛を(さかし)まにして帝王に迫つた結果できた憲法とは違ふ。また欧米諸国のごとく人民が自由民権を主張するために帝王に迫つて制定せしめたものでもない。全く、明治天皇の遠大なるおぼしめしによつて(きん)(てい)せられたる憲法であるから、外国の憲法と日本の憲法とをあわせて同一の理論をもつて解釈することは、そもそも誤つてゐると私は確信する〉


 金子は、機関説を否定している。帝国憲法は、専制君主に反逆、または自由民権を迫って成立した憲法ではないからだ。伝統ある日本の国体に基づいた、天皇の思し召しによって制定された憲法、つまり先進諸国にはない「(あら)(ひと)(がみ)」の憲法である。ちなみに金子は、ハーヴァード大学で法律学を学び、伊藤博文の命により、井上(こわし)、伊東()()()とともに憲法起草に参画したひとりである。


 伊藤博文がめざした憲法制定の主旨は、「主権在君」である。「主権在民」を一顧だにしなかった。従って帝国議会の決定は、天皇の諮問機関である枢密院が否決すれば、なんの効力もないというのが、欽定憲法の根本思想であった。


 この思想を受け継ぎ、最高学府の教育で具体化するのが、憲法学者の()(づみ)()(つか)である。


 立花隆は、「私の東大論43(『文藝春秋』平成十五年二月号)のなかで、穂積八束についてつぎのように書いている。

〈明治憲法が制定されるとすぐに東大には憲法講座が置かれ、穂積八束が主任教授となった。穂積の憲法学は、憲法の中心的起草者、伊藤博文の憲法論と、ちょっとずれた部分があった。伊藤博文の発想は、憲法以前の天皇制が持っていた絶対君主制的要素を、憲法を制定することによって弱め、専制主義的な天皇制を西欧の立憲君主制的な制度に変えてしまおうということだった。つまりそうすることで、封建制から天皇制へという明治維新第一革命(王政復古)につづけて、絶対君主制から立憲制へという明治維新第二革命を上からの革命を起こしてしまおうとしたのである。そうすることによって自由民権運動で盛り上がりつつあった下からの第二革命を防止できるという考えがあったのであろう。


 しかし、穂積八束はそういう考えはなかった。穂積は絶対主義的天皇制をもってよしとしていたのである〉


 この立花論文は、なぜ南朝天皇かを考える上で、大きなヒントを与えてくれる。


 立花のいう「下からの第二革命の防止」の意図が伊藤博文にあったかどうかは、少なくとも金子堅太郎の講演録からは読み取れない。ただ伊藤は、形ばかりの議会を開設し、民意を汲みあげる姿勢を示しつつ、最終的には枢密院の意思を天皇の「統治」という形で反映し、立憲制の「擬態」をめざしていたことは確かである。だが、穂積八束は、実務的にも「統治」は天皇でなければならなかった。


 穂積八束は、東京大学を卒業後に留学した新興ドイツ帝国で、国法学の権威ポール・ラーバント博士に学んだ。一八八三年(明治十五年)当時、シュトラスブルク大学で教鞭をとっていたラーバントは、「安定した強固な政治権力のうえに、法律的な公法学の論理を建設する」と唱えた。国家が安定してこその公法学である。


 ところがラーバントの「安定した強固な政治権力」に着目した八束は、まず安定のための「君権強化」を唱えた。八束が帰国した時期を考慮すれば、当然の帰結である。


 自由民権運動の盛んな時期、民意を反映させれば、政府が混乱をきたす。さりとて天皇を表舞台に立たせるわけにもいかなかったがために、帝国憲法第一章、天皇に関する十七条目による「君権強化」を唱え、国家の安定をはかる立場をとったのである。


 憲法と連関して発布された皇室典範を見れば、その意図はさらに明白だ。


 八束の「君権強化」が確信に変わるのは、明治三十二年(一八九九)、六年後輩の(いち)()()(とく)(ろう)が『日本国法学』を出版して「国家法人説」、のちの「天皇機関説」を唱えたからである。ちなみに一木もドイツに留学し、帝大教授のかたわら法制局長官になった内務官僚の国法学者である。学説を行政に反映させる実務者でもあった。


 ここで憲法の解釈が、天皇の「主体説」と「機関説」のふたつに割れた。


 一木の弟子・美濃部達吉は、明治三十五年に法学部教授となり、法制学を担当した。


 明治四十三年、穂積八束は、弟子の助教授・上杉慎吉に憲法講座をもたせ、明治四十五年に教授にした。そして論争は、上杉と美濃部にバトンタッチされた。


 これが憲法論議の前史である。



大正デモクラシー


 明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御、大正と改元された。


 二日後の大正元年八月一日、美濃部達吉は、天皇機関説となる「国家及び政体論」を掲載した『国家学会雑誌』を発行した。この雑誌は、七月二十日ごろに悪化した天皇の容態を予測できずに発刊したものである。


 同年八月十三日、早くも徳富()(ほう)が主筆・社長をつとめる『国民新聞』が、「曲学を排す」と、天皇機関説批判の連載を開始した。これをうけた開明派の『()(ろく)新報』は、同年九月六日、「奇怪なる憲法論」と題して美濃部擁護の論陣をはる。これに便乗した護憲擁護派は、機関説を論拠として、主体説を背景とした薩長の藩閥政治を攻撃するのである。


 ついには死人がでるほどの大騒動に発展した憲法論争は、同年六月ごろまで続き、ようやく文部省が美濃部を教員採用試験委員から外して決着を見た。


 同年九月、上杉慎吉にとって力強い信奉者が現われた。のちに「神兵隊事件」などで八面六臂の活躍をする弁護士・天野辰夫である。


 世はまさに、大正デモクラシーの時代。天野は、名古屋の第八高等学校在学中に美濃部・上杉の憲法論争に関心を持ち、東京帝大法科大学法律学科に入学して上杉の一番弟子になった。こうして上杉と天野の、民主主義への抵抗がはじまるのである。


 大正三年、上杉慎吉が政党政治の撲滅と国家改造運動を展開すると、天野辰夫が合流。そして天野は、大正七年に興国同志会を結成する。


 大正八年七月、六年間在学した大学を卒業した天野は、弁護士になった。上杉との活動はつづくが、この年、天皇主権説の大御所・穂積八束が五十九歳の若さで他界。庇護者を失った上杉にとって、苦難のはじまりであった。


 大正九年、美濃部が新たに上杉と同じ憲法学講座をもつことになった。一講座一教授の原則から外れる変則的な処置である。上杉は、四十二歳。屈辱的な人事であった。

〈競争講座をスタートさせてみると、上杉はさらに大きな屈辱が待っていた。美濃部を選択する学生がはるかに多く、また一般社会(高級官僚の世界を含む)でも、美濃部説を取る者が圧倒的だったのである〉(立花隆「私の東大論43」)


 この年、四十七歳という円熟期を迎えた美濃部に、東京帝大に同一講座を設けるほどの政治力があったとは、考えにくい。そこに一木喜徳郎の影が見え隠れする。


 枢密院副議長・一木喜徳郎は、みずから唱えた機関説の行政への反映を望んだはずである。そして上杉の主権説にクサビを打ち込んだ、と考えるのが順当であろう。


 憲法学会では、機関説と主権説の両学説を並立させたが、机上の空論である限りなんら問題はなかった。ところが、機関説が帝大法学部の正科になれば、主権説との対立は避けられない。そうした状況を、一木はあえてつくりだしたのである。


 ここに(みの)()(むね)()が登場する。強烈な国家主義者である。




 蓑田は、(かけい)克彦と上杉慎吉の影響をつよくうけた。とりわけ行政法・法理学の筧教授は、〈天皇は現人神で、神そのものであるが、同時に、(こう)()(こう)(そう)という先祖神に(したが)うという立場で、「(かむ)ながらの道」を一切の人に率先して実践する者でもある〉(「私の東大論43」)とする「天皇神権説」である。その授業も、「神がかり的」だったという。


 蓑田は、この筧の神権説と上杉の主権説に傾倒するのである。


 このとき美濃部は、国家試験の審査委員に選ばれ、機関説を学ばなければ上級試験に合格できなくなった。立花隆が〈(高級官僚の世界を含む)〉としたのは、これである。そして上杉慎吉は、国家主義運動に拍車をかけたのである。


 蓑田は、いちはやく上杉が主宰する興国同志会に入会。この前年に卒業した天野辰夫は、弁護士・竹内()()()の右翼組織・(こく)(ほん)(しや)に活動の拠点を移していた。




 上杉の片腕となった蓑田は、のちに上杉が楠正成の「(しち)(しよう)(ほう)(こく)」からとって結成した右翼団体・七生社にも身をよせ、主力となって左翼陣営の帝大・新人会に対抗する。しかし、デモクラシー旋風のなか、上杉や蓑田は、反動・御用学者として孤立する。

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