『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳
[発行]二見書房
信濃の山中から
いよいよ「南北正閏論」に踏み込むことにしよう。
明治四十三年五月二十五日に表面化した大逆事件は、幸徳秋水ら無政府主義者が計画したとされる天皇暗殺未遂事件である。この事件が放った毒矢は、歴史教科書問題をめぐって南北朝正閏論に至り、天皇のご聖断を仰ぐまでに発展した。
長野県東筑摩郡中川手村字明科は、犀川を利用した河港で栄えた町である。それも時代とともに衰退し、官営明科製材所だけが往時の賑わいを偲ばせた。
事件は、その明科で発覚した。当初、「明科事件」と呼んだのは、そのためである。
正確な時期は不明だが、前年の晩秋であろう。清水市太郎という製材工が、松本署明科駐在所の小野寺藤彦巡査に密告したところから内偵がはじまったという。
清水市太郎は、明科町内に小沢玉江なる女を囲っていた。その玉江とねんごろになった男が製材所の職長をつとめる宮下太吉、つまりは主犯格のひとりである。
宮下太吉は、玉江の家にあがりこみ、酒を吞んだ勢いで「オレは、いま爆弾を作っている」と、威張って見せた。ふたりはかなり親密な関係だったようだが、これを知った清水は、女を寝取られた口惜しさから密告におよんだという。
宮下は、荒物屋の二階に下宿していた。漆喰壁の土蔵造り。「山正」の屋号が棟下の壁に浮き彫りにされた、裕福なかまえの商家である。
夜、寝静まるのを待って宮下は作業をする。おなじ家に下宿する小野寺巡査は、薬研を挽く音に気づいていた。翌朝、なにくわぬ顔で追跡すると、宮下は、薬品を製材所の鍛治工場の屋根裏に、ブリキ缶を汽機室に隠して仕事についたという。
さっそく小野寺が本署に「爆薬を密造しているやつがいる」と報告。
松本署から派遣された刑事とともに辛抱強く内偵を続け、爆薬と出入りの人間を把握。そして明治四十三年五月二十五日未明の逮捕劇になったのである。
警察は、連累として薬研を用意したとされる農業・新村善兵衛、薬品を運んだ弟・新村忠雄、東京世田谷の農園人夫・古河力作、幸徳秋水の愛人・菅野スガを逮捕した。
当初、爆発物取締罰則違反で調べていた松本署は、「今秋十一月三日に行われる観兵式に臨席する天皇を要撃する予定だった」という宮下の自白によって、急遽、長野地裁の検事正が上京。検事総長・松室致に報告すると、内務省警保局長・有松英義は、全国の新聞雑誌に一切の報道を禁じる厳戒体制を布いた。
有松は、前年九月ごろに、幸徳秋水らが「大逆を企んでいるらしい」という情報を得ていた。密告者は、秋水と同郷の壮士・奥宮健之である。裁判記録には、爆裂弾の製造法は、奥宮が秋水の家に寄寓していた新村忠雄に教え、宮下太吉に伝えたとある。
奥宮は、しばしば政府に反抗をかさねたが、天皇制には賛成である。すぐさま彼は“隠田の行者”こと飯野吉三郎を訪ね、秋水らの企てを密告した。
飯野は、木曽の御岳山で修行をし、「神のお告げ」と称する占いで隠然たる力をもち、宮中から政財界に人脈をはりめぐらせていた。隠田は、いまの原宿の交差点のあたりである。秋水の隠れ家のある千駄ヶ谷から徒歩十分とかからない。
奥宮に二度、三度と足を運ばせた飯野は、元老・山県有朋へ秋水らの情報を流した。山県から側近・平田東助内務大臣、同大臣から有松英義へと警告が発せられる。
そして有松は、部下を張りつけて秋水らを監視させていたのである。
自由民権運動から無政府主義者に
主犯と目された秋水幸徳伝次郎は、明治四年、やがて民権運動発祥の地となる高知県中村町にうまれる。同郷の先輩に民権思想家の中江兆民がいる。
兆民は、明治二十三年の第一回の衆議院議員選挙で当選したが、まもなく辞職して民権運動に転身する。このころ兆民の書生をしていたのが、幸徳秋水だった。国民英学塾をでた秋水は、自由新聞や万朝報などの記者になり、内村鑑三、堺利彦らと親しくなる。
秋水が社会主義に傾斜するのは、明治三十年ごろである。翌年には堺利彦らと「社会主義研究会」を立ちあげ、労働運動に深く関わっていく。
一方、学問の世界では、明治三十二年、一木喜徳郎が東京帝大でおこなった「国家法人説」を骨格とした講義録を、著書『国法学』(謄写版刷り)にまとめた。穂積八束の徹底した「主権在君」を、天皇の権能を制限する「主権在民」とした学説である。そこには、天皇の「主権」をみだりに利用する薩長閥の勢力抑制の意図が読みとれる。
一木の弟子・美濃部達吉が、卒業三年目にして助教授になり、ヨーロッパへ留学するのが、この明治三十二年である。三年後に帰国する美濃部には教授の席が待っていた。
明治三十四年五月、秋水、木下尚江、片山潜らが結成した社会民主党は、中江兆民の自由民権思想を継承する労働者階級による初の政治組織だった。これに伊藤博文内閣は、即日、解散を命じた。そこで秋水は、堺利彦らと平民社を結成。週刊『平民新聞』を創刊(明治三十六年十一月)し、啓蒙書を発行して全国を売り歩く。この行商によって熊本、岡山、大阪、和歌山などの地方に平民社が誕生するのである。
創刊一周年を迎えた秋水は、堺利彦と共訳した「共産党宣言」を記念号に掲載。これが発刊停止処分をうけ、秋水らは逮捕、収監された。これに資金不足と内部分裂が追い打ちをかけ、同紙は廃刊(明治三十八年九月)。出所したあとの日本社会党の結党(明治三十九年一月)も、同志・片山潜と意見が合わず、秋水はアメリカへ旅立った。
半年後、秋水が帰国すると、仲間はちょうど日刊『平民新聞』(明治四十年一月創刊)を準備していた。アメリカで無政府主義に転じた秋水は、これに合流。そして明治四十年二月に起きた足尾銅山の労働争議により、同年四月、またも『平民新聞』は廃刊に追い込まれ、日本社会党も解散させられた。この年十一月、美濃部達吉は、「天皇機関説」を『日本国法学』(有斐閣書房)にまとめて出版している。
秋水は、ひとまず郷里に帰った。そこへ菅野スガから「党の再建を」と手紙をもらい、明治四十一年七月、上京の途についたのである。
途中、和歌山県新宮町の医師・大石誠之助を訪ねた秋水は、「正攻法ではたちうちできない、暴力によって官憲の弾圧に対抗しよう」と持ちかけた。賛成した大石は、爆弾の準備を引き受けたという。宮下は、明治四十二年十一月ごろに爆弾を完成した。
そして第一次検挙が、翌四十三年五月二十六日から六月二日まで、第二次が八月二十二日、大阪から和歌山、岡山、神戸、熊本、上諏訪へと及び三十数名が逮捕、うち二十六名が起訴された。