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天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇
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ルポ・エッセイ
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第五章 勅旨乱発に窮す

『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳 [発行]二見書房


読了目安時間:31分
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生麦事件


 文久二年(一八六二年)四月二十五日、一橋慶喜の謹慎が解かれた。

慶喜派の諸侯のみならず、攘夷派志士の期待を一身にあつめた。水戸の斉昭公の子・一橋卿ならば、必ずや攘夷の大号令をかけてくれる。そんな期待が一気に高まった。


 一度は長井()()(つか)って開国に動いた長州藩も、この四月に攘夷に転じた。江戸藩邸にいた桂小五郎は、密命をおびて京都へ向かった。その内容は不明だが、このあと長州藩士の京都での活動が活発化する。


 その年六月七日、勅使・大原(しげ)(とみ)は、島津久光とその藩兵に護られて江戸に到着した。朝廷は、公武逆転の大勝負に硬骨の老卿・大原を充てた。これを画策したのは、岩倉具視だった。勅使の護衛と称して久光は、大刀をおびて将軍・家茂に謁見したという。この前代未聞の非礼を(とが)められないほど、幕閣は弱腰になっていた。


 大原は、「三事策」の勅命を伝えた。


 第一策、将軍上洛して国是を議する策。


 第二策、五大老を置きて国政に参与せしむる策。


 第三策、幕府補佐職の登用。一橋慶喜を将軍の後見職、松平慶永を大老職となす策。


 それまで幕府の人事に介入することはなかった朝廷は、天皇の名のもとに命令したのである。これに幕府がどう応えるか。


 第一策は、長州藩が幕府に建言した要旨と同じである。


 第二策は、岩倉具視の案である。譜代大名を優先した従来の幕政に外様を登用することで、薩州、長州、土州を加える。


 第三策は、島津久光の案。十六歳の家茂にかえて慶喜に主導権を握らせることだ。


 脇坂安宅ほか三名の老中は、一策と二策は容認したが、三策の慶喜の後見職に難色を示した。が後日、承諾した。大原は、逐一、具視に手紙で報告している。


 あえて勅命を吞んだ幕府は、窮地に立たされた。天皇の膝元で国是を議すれば、当然に攘夷を決行することになる。いまや攘夷は、実現不可能だった。


 これを画策した具視の狙いは、朝廷の復権である。堂上八十八人による「(かん)()」から、和宮の降嫁、攘夷の誓約、そして大原勅使の東下と、具視の打つ手は確実に幕府を追いつめた。


 大原ら勅使が江戸へ発ったあと、朝廷内にも変化がきざした。


 尊攘派の公卿・三条(さね)(とみ)姉小路(あねがこうじ)(きん)(とも)ら若手の台頭である。実美二十五歳、公知二十三歳である。そして洛中に「天誅」が横行をはじめた。尊攘派による安政の大獄への仕返しである。具視にとっても、予期せぬ事態だった。


 文久二年七月二十日、まず血祭りにあげられたのは、安政の大獄、降嫁問題で活躍した(さきの)関白・九条尚忠の家士・島田左近であった。島田は、四条河原にさらし首にされた。実行犯は、薩摩藩士・田中新兵衛とその同志と目されたが、これが天誅の(こう)()である。


 七月二十四日、具視は、中山忠能に相談して侍従の辞職願をだした。が、それだけでは収まらなかった。八月十七日、三条実美や姉小路公知ら十三名は、「()(かん)(りよう)(ひん)」、すなわち降嫁問題に関与した岩倉具視、()()(たけ)(みち)()(ぐさ)(あり)(ふみ)富小路(とみのこうじ)(ひろ)(なお)と、(いま)()重子、堀川(もと)()のふたりの女官をふくむ六名を弾劾した書面を、関白・近衞忠煕に提出したのである。


 ここに至って具視の周辺も危なくなった。『岩倉公實記』にこう書く。

〈激徒ハ(ざん)()ヲ構フニ 密議会談 調伏 (ちん)(どく)云々ノ言ヲ以テシ 予ヲ憎ムコト(いずくん)ソ其レ此ノ如ク(はなはだ)シキヤ 運(すで)ニ風波ニ落ツ 再ヒ世ニ出ンコト 恐ラクハ其期ナカラン〉


 興奮した連中は、事実を曲げて悪口をいい、密談して呪い殺すとかチン毒を盛るとかいって、じぶんを激しく憎む。もう命運は尽き、再び世に出るチャンスはあるまいと、具視はすっかり意気消沈したのである。


 八月二十日、具視は、(らく)(しよく)(剃髪)の沙汰をうけて洛北岩倉に蟄居する。


 一方、具視を追い落とした三条実美と姉小路公知らの本拠は、京都御所脇の学習院であった。この年十二月に国事御用(がかり)に補せられるふたりは、長州の久坂玄瑞、寺島忠三郎、肥後の宮部(てい)(ぞう)、轟木武兵衛、河上(げん)(さい)ら過激尊攘派と交わっていた。そして彼らにかつがれた三条実美らは、偽の勅旨・密勅を乱発し、幕府を混乱に陥れるのである。


 過激尊攘派の志士は、京都の長州藩邸にいる桂小五郎を通じて、藩主・毛利(たか)(ちか)ともつながっていた。また桂は、在京の水戸浪士、土佐、肥後、(いわ)()国津和野、対馬の志士らと藩主・敬親とをさりげなく会合させ、長州への野合を策していた。


 攘夷と開国の均衡を破ったのは、(なま)(むぎ)事件である。


 文久二年八月二十一日、島津久光が江戸から京都に戻る途中の相模国生麦村で、馬にまたがって行列を横切った英国人が四人いた。薩摩の護衛は、これを無礼討ちにし、ひとりを斬殺、ひとりに重傷をおわせた。


 これが幕府と英国とのあいだで問題化し、一気に国論が攘夷に沸きたつのである。


 同年(うるう)八月、会津藩主・松平(かた)(もり)が初代京都守護に任ぜられ、所司代となった弟の桑名藩主・松平(さだ)(あき)とともに京都の治安に勤めることになる。


 十月末、三条実美と姉小路公知が正副の勅使として東下した。これに随従したのは、久坂玄瑞ら尊攘過激派であった。その勅旨なるものは、「日本を焦土と化しても、なお攘夷を実行遊ばされたい。

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