『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳
[発行]二見書房
天皇御陵は泉涌寺
御医伊良子光順の「手控」は、慶応三年(一八六七)一月七日の「御入棺」から始まっている。天皇の遺体を納めた御舟は、清涼殿の中央に置かれてあった。
《清涼殿にて御棺まえの拝礼の儀に、御医ならびに参勤の面々が願い出た。先帝の例があるから、それに従ったのである》(「天皇拝珍日記」要約)
当日参集した御医は、二十六人。許可がおりてそれぞれ衣冠束帯の正装に着替え、非蔵人の先導で一列となって伝奏・飛鳥井雅典の控え室に通された。そこからは飛鳥井の案内で、御所正面玄関の内側を通り、長い廊下を清涼殿の西廊に参進する。
障子を開け放した縁側中央より清涼殿に拝礼し、内にあがってもう一度拝礼。飛鳥井が着座してから「御舟」に拝礼し、縁側にさがってまた拝礼とつづく。
このあと「十日から触穢」と発表された。御所内の総員が服喪する。
一月八日、光順らが徹宵して先帝の看病に控えた「住吉の御間」が御座所となった。みだりに大声で騒ぐなとのお触れが出る。御医は、いつものように交代勤務である。
一月九日正午、祐宮睦仁親王は、践祚した。そして同日、先帝のお局から下級の三仲間(御末・女儒・御服所)にいたる女官のすべてに剃髪が命じられた。そして大葬の礼は、一月二十七日と決まり、御陵となった東山泉涌寺における式次第が組まれた。鎌倉時代から歴代天皇が葬られており、北朝天皇が眠る墓所である。
また宮廷では、満十四歳となる新帝の摂政には、関白だった二条斉敬が横滑りした。二条家は、水戸系である。将軍慶喜にとってはやりやすく、また先帝の信任厚かった賀陽宮朝彦親王も側近する。こうして幼い天皇を擁した開国派が朝廷を占めた。
そして長州征伐は中止となり、軍艦奉行・勝海舟が広島の厳島に派遣され、引き揚げる幕軍を追撃しない条件で和睦交渉に入るのである。
一方、一月二十三日、幕府の勘定吟味役・小野友五郎を正使とする十名がアメリカに出発した。この使節団は、第一次征長のおり全戦全敗を喫し、英国の武器商グラバーから長州が買いつけた火器、軍艦の違いを見せつけられた経験から、装甲艦と新式の銃砲を購入する使命を帯びていた。
洛外蟄居の岩倉具視にとっては、ここが踏ん張りどころであった。
服罪中の宮家や公家は、七十人を超えたと前述した。これらのうちから有益な人物を、新帝践祚の恩赦ではなく、先帝崩御の大赦を建言し、先帝の勅勘を宥免させなければならなかった。その筆頭に挙げたのが、中山忠能であった。
《新帝は幼くして践祚した。一日も早く保育掛の「太傅」が必要である。中山大納言は新帝の縁故があり、太傅の職にふさわしい。卿、よろしく関白、内大臣を説得して幽閉を解いてその職に任命されるよう周旋すべし》(『岩倉公実記』要約)
具視は、この手紙を幽居中の中御門経之宛てに書いた。経之は、息子の経明に命じて二条斉敬摂政と近衛忠房内大臣に説得させ、他方、具視は井上石見を通じて内大臣に接触させる。すると忠房は、「一部に反対者がいる。前関白・鷹司輔煕を出仕させれば反対できなくなる」と知恵を授ける。鷹司はこのとき、長州と気脈を通じていた嫌疑をかけられて謹慎中であった。すぐさま具視は、山中静逸に命じて鷹司の出仕を促すのである。
こうして具視は、中御門経之と井上石見を両輪に、中山忠能ほか前関白・九条尚忠ら二十二人の宥免を周旋させた。そして一月十五日、前関白・九条尚忠ら十三名を宥免させ得たが、中山忠能の名はなかった。そこで具視は、経之、経明、および井上石見、山中静逸を督励し、ついに一月二十五日、有栖川宮熾仁親王をからめて〈偏頗ナク赦免〉すべきを説き、残る中山忠能以下橋本実麗、豊岡随資ら九名の宥免に成功したのである。
慶応三年一月二十七日、いよいよ大葬の日を迎えた。
夕方六時、御舟を乗せたお車は、厳戒態勢の御所を出発した。
将軍以下老中、守護、守護代、在京の大名たちが供奉する葬列は、葵祭さながらに夜目にも荘重かつ鮮麗だったにちがいない。
伊良子光順ら三人の御医たちは、先行して泉涌寺内の新善光寺に待機していた。取次衆三人の女官とおなじ控え室だった。
「みなさまは、お薬など召し上がったらいかがですか」と、尼頭巾姿の女官がいう。
光順は、〈御薬等称し入魂之儀承申候〉と「手控」に書いている。
御医たちは、寺の奥より菓子や寿司、煮染めなどが運ばれた三仲間の控え室に移る。顔見知りとはいえ、女官の側で神酒をいただくなど宮中では考えられなかった。また特別に、将軍からも料理が届けられるという大盤振る舞いであった。
午後八時、お車が蛤御門を出たと連絡が入った。そして午後十一時ごろ、五条大橋を渡御された。お車は、ゆっくりと深々と冷える都大路を進んでいた。
お局と三仲間は葬儀場の入口へ、御医は寺の大門に向かう。光順は、家来二人に丸提灯を、下男二人には角提灯をもたせて所定の位置で迎える。
そして御陵の前庭で法要を行い、ようやく宿坊に引き揚げるのが二十八日午前一時半ごろであった。こうして孝明天皇は、北朝天皇に列して仏式で葬儀されたのである。
具視、開国に大奮闘
蟄居中の岩倉具視が影響力をもち得たのは、外部の情報と公家の事情に通じ、加えて度胸の良さが備わっていたからである。
二月六日、将軍慶喜は、フランス公使ロッシュを大坂城で引見し、幕政改革の意見を聴取した。そこでロッシュは、応える。
〈幕府は、いったん締結したいかなる条約をも断じて破棄しようとしてはならない、と。ロッシュはいう。諸藩、中でも薩摩藩と長州藩は、幕府が開国を望んでいないことを口実に、自藩の領内の要港を開こうと英国と独自の交渉に入っている。幕府の利益を考えるに、この際、長年にわたって列強との議論の的になっている兵庫、新潟の代港として、下関と鹿児島を開港すべきではないか。これらの港を開くことで幕府は誠意を示すことになり、これはとりもなおさず諸藩の機先を制し、薩摩長州二藩の策謀を挫くことにもなる〉(ドナルド・キーン著『明治天皇』)
二月十九日、慶喜は、尾張、紀伊など主要九藩に神戸開港の是非を問い、孝明天皇が反対した時代と異なり、積極的に海外に目を向けるべきだ、と説いた。しかし、諸藩の反応は、先帝の反対した開港に消極的だった。そこで慶喜は、単独で朝廷に上奏するのである。
この情報をつかんだ具視は、三月になって「憂慮益々深く」して済事の策議を摂政二条斉敬に提出した。
《アメリカやヨーロッパの諸国たるや、威武を誇張して鉄城のごとき巨艦をもって烈風逆浪のなかを疾駆している。これを放置してよいのか。皇国六十余州が一致団結し、心を一つにして務めるべし》(『岩倉公実記』の要約)
さらにいう。
《世界の情勢は昔日と異なり、皇国ひとり旧慣にこだわることなく、かつては神功皇后のように、ちかくは豊臣太閤のように、わが皇国には朝鮮出兵をするほどの力があった。元の大軍すら神風が吹いて撃退したではなかったか。もとより一枚の紙切れで大号令をかけるだけでは、空論に終わる。まず朝廷より、海外渡航の道を開き、実益を得るべくアメリカやヨーロッパ諸国へ勅使を派遣し、歴訪することから第一歩がはじまる。
座して外国の要求をうけ、盟約を結ぶだけでよしとせず、勇気をもってこちらから求めて盟約を結ぶのである。もとより国内の軍備も必要であろう。それも外国の虚実をすべて視察して、長所は長所として採り入れ、わが皇国の用に充てる努力をせねばならない。
もし仮に、わが皇国に無礼を働く国があれば、その罪を万国に訴えて、外国人に外国人を討たせるぐらいの計略を怠ってはならない。
兵庫開港の交渉についても、朝廷がなすべきである。先帝が国事に叡慮を注がれたことをおもうと、まことに涙ぐましい御努力であられた。