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天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇
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ルポ・エッセイ
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第九章 鳥羽伏見の戦い

『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳 [発行]二見書房


読了目安時間:29分
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討薩の表


 あけて慶応四年(一八六八)元旦――。


 御医・伊良子光順は、新年恒例の「御薬献上の儀」を辞退した。昨年末、朝廷より中止の沙汰があったからである。


 正月二日、大坂城内では、「(とう)(さつ)の表」を朝廷に差し出すことに決し、いよいよ幕軍一万三千余が京都に向けて大坂城を発つことになった。大目付・瀧川具挙が書いたという「討薩の表」は、

《臣慶喜、謹んで先月九日より事件を拝察してまいりましたが、朝廷の真意によるものではなく、薩摩の久光が奸臣どもと陰謀をめぐらしたことは、天下の知るところであり、江戸や長崎、群馬などで乱暴を働き強盗をしたのも同家臣がそそのかしているもので、東西供応して皇国を乱しております。そのような奸臣は、こちらにお引き渡しくださるように。万一、ご採用にならなければ、やむをえず(ちゆう)(りく)することを謹んで(そう)(もん)し奉ります》(『岩倉公実記』要訳)


 として、別紙には、犯罪の数々が列挙してある。


 形式的には、入洛の目的を書いて許可を朝廷に願いでるものである。大目付は、今日でいう警察庁長官である。犯罪者は、徹底的に取り締まらなければならない立場だ。


 大坂城内には、会桑藩兵と幕軍、そして新たに加わった兵を入れて三万近くいた。


 すぐさま幕軍は、京都に通じる播州街道、京街道、紀州街道を譜代諸藩の兵で固め、本陣を淀に構えるのであった。


 そしてこの日、御所では、午前十時から三職会議が開かれた。


 神戸にある諸外国との外交は、朝廷が行う。ついては慶喜に仲介の労をとらせ、のち朝廷が専任すると協議するうちに、幕軍が大坂城を出たとの報せが京都にもたらされた。


 この(とき)を待っていた西郷隆盛、大久保利通、長州の広沢(さね)(おみ)らは、具視と最後の打ち合わせをした。前年十月に偽の密勅を発したとき、西郷が提案した〈()(けつ)(さい)(あい)(たち)(そうら)ハゝ一発前夜(ぎよく)(いん)()()(こう)()(かた)可宜哉之事(よろしかるべきのこと)(『岩倉公実記』)などの再確認であり、戦闘と決めたならば、開始の前夜に「玉印(天皇)」を密かに連れ出す作戦である。


 天皇を女装させ、女性用の御輿に載せて(じゆん)(こう)方とともに禁中を出す。正親町三条と中山忠能が付き添い、薩長二藩の兵が護衛として山陰道から広島と岡山のあたりに遷す。そのあと尾張と越前の藩兵を護衛につけ、空の(ほう)(れん)を比叡山に向けて出発させる。そして宮方を派遣して、東北諸藩に出兵を促して巻き返しを図る陽動作戦である。


 しかし、その尾張と越前の態度が曖昧になっていた。


 幕府討伐の大参謀に任ぜられた西郷隆盛は、すぐさま東寺に陣を構え、京都の入口、鳥羽と伏見に薩長土の藩兵を配置して迎え討つ準備にとりかかった。


 北上する幕軍は、正月三日午後二時すぎには、鳥羽口に達していた。慶喜にとって、この進軍は寝耳に水だったともいうが、「討薩の表」は慶喜の名前で書かれてある。おいおい出陣という手はずだったのかもしれない。


 大坂湾には、船舶が蝟集していた。旧幕府の軍艦は、開陽丸、富士山丸、蟠竜丸の三隻が、運輸船は、翔鶴丸である。薩摩の船も軍艦・春日丸、運輸船・平運丸、そして江戸から逃れてきた翔鳳丸。これに加えて各国の軍艦も停泊していた。


 その三日午後のこと、禁裏において三職、百官の緊急会議が開かれた。そして、

「慶喜に謀叛の懼れあり、大坂に兵を引かずば朝敵として討伐すべし」


 と、決定。朝廷は、仁和寺宮(よし)(あきら)親王を征討大将軍に任命し、(きん)()(せつ)(とう)を授けた。倒幕軍は、この瞬間に「官軍」となったのである。


 またその日の宮中では、天皇の成人式の一環行事が始まっていた。


 前儀式は、伊勢神宮に奉幣使を派遣し、儀式の執行を報告する。こちらの時計は、ゆったりと進んでいる。


 またまたその日、幕軍出陣の報せが朝廷に届いた。慶永と豊信は、驚いて慶喜をおしとどめようと急使を走らせたが、間に合わなかった。


 その日夕刻、御香宮(ごこうのみや)神社に陣どった薩摩軍は、いきなり伏見代官所に陣を構えた幕軍に大砲をぶっ放して戦いの火ぶたを切った。これが世にいう鳥羽伏見の戦いである。


 そしてイギリス公使パークスは、各国公使と大坂城に「局外中立」を通告する。一見、公平なようだが、薩長土の藩兵を一国の国軍と認めることで、巧みに幕府を後援するフランスを牽制し、慶喜に圧力をかけたのである。


 出兵一万三千の幕軍に対して、薩長土の兵わずか四、五千名。幕軍は、まだ大坂城に一万七千の兵力をたくわえていた。連日連夜、不眠不休の戦いがつづけば、兵糧から弾薬、兵員の補給と、いずれをとっても薩長土連合軍の劣勢は明らかだった。


 ところが、三藩連合軍が勝つのである。勝利の秘密は、錦の御旗にあった。

錦旗を急げ、焦る隆盛


 慶応四年正月三日夜、隆盛は、戦況が気になって東寺の陣をでた。伏見を視察して帰ったのが深夜。隆盛は、大久保宛に手紙を書いている。漢文調を平文にして要約する。

《初戦の大勝は誠にめでたく、兵士の頑張りにも感心したが、追討将軍の儀は、どうなっているのか。

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