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天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇
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ルポ・エッセイ
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第十章 東京遷都と隆盛

『天皇は暗殺されたのか 150年後に明かされる明治維新の真相と南朝の闇』
[著]大野芳 [発行]二見書房


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天皇を東京へ


 慶応四年四月四日、東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・西郷隆盛らが江戸城に入城して、ここに無血開城が実現した。


 同月十一日には、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜が水戸に隠居して、百万都市江戸は、新政府の軍政下に置かれた。


 同年五月十五日には、上野山を死に場所とした(しよう)()(たい)が鎮圧され、さらに同月二十五日夜半、軍艦・長鯨丸に乗船して上野寛永寺を逃れた輪王寺宮(こう)(げん)(ほつ)(しん)(のう)(北白川宮)は、東武皇帝として奥羽越列藩同盟の盟主に担ぎあげられる。これが北越・戊辰戦争となって事態の収拾にはさらに時間はかかるが、ひとまず五月二十四日、慶喜が駿府七十万石の大名として新たに徳川家を起こすところで、倒幕戦争を閉じることにする。


 太政官府すなわち新政府は、三条実美を筆頭に岩倉具視、中山忠能ら十名によって執行されたが、もちろん主導したのは、岩倉具視である。


 具視らによるつぎの仕事は、天皇を京都から離すことだった。


 まず、慶応四年七月十七日、新政府は、江戸を「東京」と改める通達を出し、八月四日に両都の並立を布告した。そして東国の慰撫は、ひとえに天皇の行幸に懸かっている、と公卿を牽制する。




 同年八月二十七日、天皇は、京都御所で即位した。


 ここで腕を(ふる)ったのは、津和野藩主・亀井茲監と、国学者・福羽美静である。

〈福羽は、古来の伝統に明らかにそぐわない一つの建言をした。福羽はいう。かつて徳川(なり)(あき)が、孝明天皇に地球儀を献じたことがあった。斉昭のねらいは、孝明天皇に世界の大勢を知らしめ、四方に向けて日本の国威を発揮するように仕向けることにあった。もし、この地球儀を即位の式典の中心に据えるならば、と福羽は続けた。列席する百官有司(役人)に高邁なる志操を吹き込み、その見識を深めさせることになる。同時に万民は、荘厳崇高な即位の式典に深く感銘を受けることになるに違いない、と〉(キーン著『明治天皇』)


 もともと即位式は、宮廷の儀式であった。これを福羽は、役人と国民が感銘をうける式典にしようと、式典に捧げる宣命宣制と寿(じゆ)()に万民の奉賀の気持ちをこめて作成した。


 福羽は、のちに『(さん)(しゆう)()(けい)()』を監修し、その前文に〈なほ後世の(さん)()をまつ〉と、書いた。彼は、次々と打ち出される新政府の行政マンとして活躍していくことになる。


 慶応四年九月八日、明治と改元。このとき「一世一元」の制度に定められた。


 元号と暦の制定は、大化の改新以来、朝廷が手放さなかった職掌である。そして天皇在世中も、元号は変幻自在に変えられた。しかし、王政復古による「万世一系」を徹底させるために、新政府は「一世一元」に固定化する必要性に迫られた。中央政府が(あずか)りしらない皇統が立てられたら、南北朝の二の舞になるからである。


 これを天皇の「叡慮」として発布したのである。


 江戸が東京と改まり、東京鎮台判事となった江藤新平は、ここで天皇の東幸を建白。

《東国の民衆は、長年にわたる武家政治の恩恵に慣れ、未だ天皇の慈愛の威光の何たるかを知らない。徳川家の崩壊で、東国の民衆は、主人を奪われたも同然の思いであり、その思いをどこへ向けてよいか途方に暮れている。もし(ぞつ)(かん)を恐れて天皇の東幸が延期されたとなれば、天皇の新政府は信を内外に失うばかりでなく、東国の民衆の心を摑む願ってもない機会を逸し、その()(がい)には測り知れないものがある》(『明治天皇』より要約)


 具視は、この建白書を容認した。


 この「東幸」が遷都につながることを恐れた公卿は、東国がいまだ鎮圧されずに「危険な状態」にあることを反対の理由にした。


 大久保利通は、そのころ東京にいた。「東幸」決定の報せは、なかなか届かなかった。苛立った大久保は、九月十三日、京都に乗り込んだ。そして朝議の席ですみやかに断行せよと激しくせまるのである。


 ようやく朝議は、九月二十日の出発と決めた。


 当日午前八時、天皇は、()(しん)殿(でん)に出御し、(ほう)(れん)に乗御。天皇に供奉する従者の数三千三百名、岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、木戸孝允らがつきそった。長蛇の列は、ゆっくりと東京へ向かった。そして十月十三日、東京着御。


 ドナルド・キーンは、興味あるエピソードを紹介している。


 東京に到着したあとの十一月二十八日、天皇が初めて軍艦富士に搭乗したときの光景である。米艦が二十一発の祝砲を撃ったのに、富士も答砲を鳴らした。

〈天皇に随従した侍臣たち(議定中山忠能、参与大久保利通等以下)は、この砲弾の音に肝をつぶした。しかし天皇は、「自若として龍顔(こと)に麗し」と記録にある。後年、間近で爆発ないしはそれに似た音がしても、天皇は同じく沈着冷静だった。幼少の頃、天皇が砲弾の音を初めて聞いて気絶したという話とは、いかにも対照的ではないか〉(同)


 蛤御門の変のときである。長州兵が御所に撃ちかける大砲の音に、睦仁親王は気絶したという逸話が残っている。親王が満十二歳になるころであった。


 キーンのいう「いかにも対照的」とは、いかにも暗示的である。


 麻郷には、寅之祐が奇兵隊の隊士を相手に相撲に興じ乗馬した、という逸話がある。天皇の相撲好きはつとに有名だが、乗馬もできた。そしていま、天皇は満十六歳になった。

国体づくり


 維新は、成った。時期については、諸説ある。


 慶応三年十二月の王政復古、慶応四年四月の江戸城開城、明治元年九月の北越諸藩の制覇、明治二年五月の榎本武揚の鎮圧、同年六月の版籍奉還、明治四年七月の廃藩置県と、維新は段階的に完成に向かった。


 通説では、中央集権の基礎というべき廃藩置県をもって終結とされるが、絶対王制の確立からすれば、不充分であった。明治新政府最大の課題は、それを補う作業から始まった。


 皇家の系図、憲法、皇室の内規まで整然と、だれからも後ろ指を差されない(きん)(おう)()(けつ)の「皇国」づくりに懸命な努力が払われた。


 明治三年閏十月二十四日、神祇大副兼宣教()()に取り立てられた福羽美静は、御系図取調方を兼務させられた。神祇官伯に宣教長官・中山忠能、大副に公卿・白川(すけ)(のり)、少副に公卿・(うめ)(たに)(みち)(たる)の名前があるが、実務は少副の福羽美静が務めた。


 福羽は、国学者・横山(よし)(きよ)、黒川()(より)、井上(より)(くに)を集めて『纂輯御系図』の編集に着手するのであった

大鉈をふるう隆盛


 ここで忘れてならないのが、西郷隆盛の進退である。


 江戸城の無血開城、慶喜の処遇に温情をもって英断をくだした隆盛は、慶応四年五月、上野にたてこもった彰義隊を、渋々と、しかし長州の戦略家・大村益次郎が手をこまねいているのを見かねて一日で討伐した。そして六月、京都に赴いた隆盛は、藩主・島津忠義に戦勝を報告し、藩主に随従して薩摩に戻る。ところが八月、北陸道に出征した薩摩軍の戦況がおもわしくなく、軍司令官に任命された隆盛は、越後柏崎に上陸した。そして九月、ようやく庄内藩、仙台藩、会津藩を征圧した隆盛が、庄内を出発し、東京、京都、大阪をへて薩摩に帰り、宮崎の吉田温泉で湯治療養に入るのが、改元したばかりの明治元年十一月であった。


 翌明治二年二月、藩主から藩政の改革から兵制の整備を要請された隆盛は、戊辰戦争に功績のあった下級武士の不満を解消する策をとった。同年五月、箱館戦争の応援軍司令官を命じられ、藩兵を率いて駆けつけたところが、()(りよう)(かく)は開城したあとだった。


 そして、帰路、東京に立ち寄ったさい、懇請された新政府残留を断って帰郷するのである。


 同年七月八日付の、薩摩藩執政心得だった桂(ひさ)(たけ)宛の隆盛の書簡がある。

〈少弟〔西郷のこと〕身上の儀、幾回も申し上げ候通り、()()(ざん)(こう)にもいたせ、一度賊臣の名を(こうむ)り、獄中(まで)打ち込められ候に付き、其の(まま)朽ち果て候ては先君公〔島津斉彬〕へ申し訳これなく、一度国家の大節に臨み、賊臣の御疑惑を相晴らし候えば、(せん)()の君へ謁し奉り、口をつぐみ申す()(じく)と、是のみ相考え(まか)り在り候事に御座候〉(猪飼隆明『西郷隆盛』)

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