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健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
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人文・科学
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第六章 アーキテクチャとコミュニケーション

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』
[著]熊代亨 [発行]イースト・プレス


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精神科病院で見た規律訓練型権力と環境管理型権力



 この第六章では、街並みや家屋のつくり、インターネットのアーキテクチャによって私たちが受けている影響や課題について、本書のテーマに沿ったかたちで概説していく。


 ここまで記してきたとおり、私たちの行動や振る舞いは時代それぞれの通念や習慣に基づいていて、それらを免れるのは簡単ではない。通念や習慣から逸脱していれば、不健康や不道徳とみなされることさえある。


 そのことに加えて、私たちの行動や振る舞いは空間のつくり、つまり空間設計(アーキテクチャ)によっても左右されるし、通念や習慣自体も空間設計によって影響を受けずにはいられない。


 たとえば、縁側をとおして隣近所と顔を合わせやすかった昭和時代の家屋と、プライバシーを最大限に尊重した令和時代の家屋では、隣近所とコミュニケーションする頻度や内容は大きく違ってくるし、後者で暮らしているほうがプライバシーの侵害に敏感にならざるを得ない。隣近所との接点が生じやすい家屋のつくりか否かによって、私たちのコミュニケーションやプライバシーに対する感覚は影響を受ける。私たちの通念や習慣が、空間設計と密接な関係を持っている以上、本書もこうした問題に触れないわけにはいかない。


 本題に入る前に、私が空間設計の問題に関心を抱くようになったいきさつを紹介しておこう。


 私が精神科の研修医だった頃、指導医から「いろいろな精神科病院を見学してきなさい」と言われ、あちこちの病院を巡らせてもらったことがあった。何も知らなかった当時の私にも面白く感じられたのは、精神科病院の病棟の設計だ。病棟の設計はさまざまで、なかには病棟の中央にナースステーションが存在し、それをぐるりと囲むように病室が配置された、円形状のつくりのものもあった。


 歳月が経ち、ミシェル・フーコーを読むようになって、それがベンサムによって考案された、「パノプティコン」と呼ばれる空間設計であることを私は知った*1。私が研修医時代を過ごした長野県には、この、パノプティコン型の病棟が二〇〇〇年頃にもまだ生き残っていた。


 だがそれ以上に私がインパクトを受けたのは、開放的な環境の二階建て病棟で治療を行い、それでいて飛び降り自殺を防ぎ、患者同士のコミュニケーションを促し、足腰の萎えない入院生活を実践するべく取り組んでいる病院の空間設計だった。


 それは長野県南部にある、南信病院という小さな病院だった。全開放型の精神科病棟のパイオニアである病院長のアイデアにより、たとえば二階の窓には飛び降り防止の鉄格子のたぐいは据え付けられていなかった。窓から階下を見下ろすと、そこには大きな花壇がもうけられ、いつも花が咲いている。階下に花が咲いていると窓から飛び降りようとする人は少なくなるし、万が一飛び降りたとしても、その際の衝撃はコンクリートより小さくなる。


 平成時代にもかかわらず、病棟のラウンジにはテレビが設置されておらず、かわりに新聞や雑誌類、トランプや麻雀などがたくさん置かれていた。ラウンジは一人で過ごすより皆で過ごすのに適した空間として設計されていて、おのずと患者同士が接点を持ち、コミュニケーションするようつくられていた。四季の移り変わりを感じさせる大きな庭園は散歩道ともなっていて、入院生活で足腰が萎えることがないよう配慮されていた*2


 このような空間が実現できた背景として、小さな病院ゆえに最重症の患者が入院してこないこと、病院長をはじめとする医療スタッフがスキルフルであることも考慮しなければならないだろう。とはいえ、他の病院とは病棟の設計と機能があまりにも違った。薬やカウンセリングだけでなく、空間設計によっても患者の行動や症状が変わり、ひいては治療にも影響することに私は強いインパクトを受けた。


 中央から病室を一望できるつくりにするか。それともテレビのないラウンジをもうけて患者同士の接点をつくり、コミュニケーションを促すのか。具体的な方法は異なるが、空間設計をとおして人の行動に望ましい影響を与えようとしている点では、両者は共通している。


 前者は空間そのものが患者の行動に影響を与えるのでなく、空間をとおして配られる「見られている(かもしれない)」視線をとおして行動の改善を促し、規律を内面化させるためのもので、「規律訓練型権力」と一般に呼ばれている*3。規律を内面化させることで適切な行動や振る舞いの人間を作り出す、という点では学校なども規律訓練型権力に含まれ、スケジュールどおりに行動する人間、清潔で行儀良く、座学やホワイトカラーの仕事をこなせる人間を作り出す社会装置として学校は機能している。


 一方後者は特定の規律、または習慣や通念を内面化させるまでもなく人間の行動を変えている。このような空間設計は「環境管理型権力」と呼ばれ、たとえばファーストフード店の椅子の座り心地を悪くすることで客の滞在時間を短くする、ホームレスが座り込みそうな場所にオブジェを配置して座り込めなくする、などが挙げられる*4


 患者の行動や振る舞いをマネジメントする精神医療の現場で空間設計の実効性に馴染んだ私は、こうした考え方に基づいて東京という街を、あるいはニュータウンやタワーマンションの暮らしを考えずにはいられない。精神科病院と同じく、私たちの街や住まいの空間もまた、私たちの行動に影響を与え、通念や習慣の内面化と関わりを持っているのではないだろうか。


人々の行動を枠にはめ込む都市としての「東京」



 東京は、街全体が人工的な空間設計に覆われている。精神科病院と同じような意図で空間設計されているわけではないが、ともかく、街全体が人の手によってつくられていて、無定義で自然のままの場所など東京にはほとんど存在しない。


 そんな人工的な空間設計に覆われた街のなかで、東京に住まう人々のほとんどは行儀良く暮らしている。これほどのメガロポリスが混沌状態に陥ることなく機能しているのは、ある面では東京の市民の行儀の良さのおかげでもあるだろう。


 たとえば東京の市民はむやみに道路を横切らない。彼らは横断歩道や歩道橋を使って、定められたとおりに道路を横断する。車の往来が激しい場所はもちろん、車のほとんど通らない住宅地でさえ、横断歩道のない車道を斜めに走り抜けようとはしない。そして横断歩道でも、赤信号なら律儀に止まる。ゴチャゴチャとした繁華街近くの横断歩道はともかく、住宅地の横断歩道では自動車が通らなくても律儀に赤信号を守っている。そういう人が田舎よりもずっと多い。


 これらは東京育ちの平成生まれには当たり前かもしれないが、田舎育ちの昭和生まれである私から見ると、その規律と習慣の徹底ぶりに感動すら覚える。田舎育ちの昭和生まれは、横断歩道のない車道を平気で横断するし、東京の人々ほど歩行者用の赤信号を守らない。


 また東京の市民は立小便をしない。立小便は、田舎育ちの昭和生まれには珍しくなかったし、地方の町村部や発展途上国では現在でも頻繁に見られる。だが東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。


 どうして東京の市民はこれほどルールどおりに行儀良く行動できるのだろう? もちろんある部分は、東京で暮らす人のハビトゥスや文化資本が地方の人に比べて洗練されているせいもあるだろう。清潔をはじめとするブルジョワ的なライフスタイルは、上流から中流へ、中流から庶民へ、中央から地方へと広がっていったのだから、現代社会で望ましいとされるハビトゥスや文化資本を身に付けている人が、日本の首都でとりわけ多いのは想定しやすいことではある。とはいえ、東京には地方からもたえず人口流入があり、最近は外国人も多い。それでも東京は混沌状態に陥ることがない。


 東京の秩序について思案しているうちに私は気が付いた──東京という街は、人々の行動を枠にはめ込み、そこで生活しているだけでおのずと習慣や規律をインストールしていくような空間設計にほとんど覆い尽くされている、と。


 たとえば次の写真。交通量の多い場所はもちろん、交通量の比較的少ない場所でも、都内の道路は歩車分離のためのガードレールが設置され、歩車分離が物理的に徹底されていることが多い。田舎者の私が横断歩道や歩道橋のない場所で車道を斜めに渡ろうとすると、ガードレールに遮られ、(うっ)(とう)しいと感じたりする。




 だが、都内に住み続け、ガードレールによる歩車分離に慣れている東京の人々は、私ほどガードレールを鬱陶しがったりしないのではないだろうか。なぜなら、ガードレールや歩道橋や歩行者専用レーンといった空間設計に囲まれて暮らしていれば、意識するまでもなく、ごく自然に「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣が身に付くだろうからだ。


 私は田舎で生まれ育ったから、「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣がきちんと身に付いていない。地方の道路にも歩車分離を示す白線は引かれているし、道路交通法は全国共通ではある。しかし歩行者に歩道を歩かせるための物理的なインフラは都内に比べれば貧弱で、歩行者はいつでも車道にはみ出せてしまう。


 このため、田舎で「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣を身に付けるためには、かなり意識的な努力を積み重ねなければならない。

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