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健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
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人文・科学
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第七章 資本主義、個人主義、社会契約

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』
[著]熊代亨 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:52分
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 ますます便利で快適、安全・安心になっていく社会のなかで私たちに課せられている諸条件について、さまざまな角度から検討してきた。社会が進歩するにつれ、私たちに期待される行動や振る舞いが変わり、それに伴って、私たちがどう自由でどう不自由なのかも変わった。誰がマジョリティたりえて、誰がマイノリティたりえるのかも変わっただろう。東京の美しい街並みや令和時代の秩序は、そうした変化のうえに成り立っている。


 第七章では、そうした社会変化の根底にある思想やイデオロギーについて、本書の主旨に沿ったかたちで考えてみる。


 第二章~第六章で紹介したトピックスには常に、資本主義や個人主義や社会契約からの影響が見え隠れしていた。メンタルヘルスの診断基準には資本主義的プラグマティズムが関わり、健康にはブルジョワ的な上昇志向の手段としての、または個人主義的な自己顕示の意味合いがあった。現在の健康は“普遍的価値”のひとつとみなされ、資本主義的プラグマティズムと結びつけて自己目的化している。


 子育ての難しさもこれらと無関係ではないのは、第四章で述べたとおりである。清潔にまつわる習慣や通念、プライベートな個人生活とそのための空間設計についても、そのルーツは中~上流階級に遡ることができる。


 それぞれの章で紹介した進歩は、自然科学的なテクノロジーや社会科学的な制度によって支えられると同時に、思想上の正しさによっても支えられてきた。少なくとも欧米の知識階級とそのフォロワーたちは、テクノロジーや制度のアップデートに歩調を合わせるように思想上の正しさをもアップデートさせ、その正しさを世界じゅうに行きわたらせてきた。西洋文明が世界を席巻し、現在も席巻し続けていられるのは、テクノロジーや制度の進歩にあわせて正しさをもアップデートさせ続けてきた一面にもよる。


 だがもし、そうしたアップデートの二人三脚が中~上流階級から庶民にまで行きわたっていくなかで、当初は予期していなかった副作用が表れてくるとしたら、そこにも目を向け、克服していくのが本当の意味での進歩ではないかと私は思う。たとえば高度経済成長期には公害問題が顕在化したが、日本社会はこれを克服していった。人類全体の発展に伴うグローバルな副作用としての地球温暖化についても、これを克服すべきという声が上がっている。


 それと同じことが、第二章~第六章で取り上げた進歩の数々にも言えるのではないだろうか。


 本書を締めくくるにあたり、なにかと見え隠れしていた思想やイデオロギーの問題に言及しないのは片手落ちもいいところだろう。こういった分野に関して、私は浅学きわまりない身ではあるけれども、社会の進歩や自由を考えるにあたって素通りするわけにもいかないため、現時点での所感を述べてみる。


自由の代償として私たちが背負わされているもの



 私たちは大変自由度の高い、多様な社会に生きている。それは諸々の進歩のおかげなのだが、その進歩が何の留保もなく私たちに自由を提供しているわけではない。これまで記したように、私たちは進歩した社会にふさわしくいられるよう、つまり就労能力も、清潔さも、行動や振る舞いも、安全・安心な社会に見あったものであるよう、暗に期待されている。医療や福祉によるサポート、学校教育による規律の訓練、法制度といったさまざまなものが、社会から逸脱しそうになる人間を社会へと引き戻す。空間設計からの影響もその一部と考えて差し支えない。


 そのことと引き換えに、私たちは資本主義、個人主義、社会契約、これらが三位一体となったイデオロギーに根ざした利便性や快適さを受け取っている。たとえば暴力やローカルな権力に抑圧されることなく、自由に売買やコミュニケーションを遂行できるのは、この社会にふさわしい通念や習慣を誰もが共有し、それにふさわしい行動をとっているからだ。


 一九世紀の哲学者であるジョン・スチュアート・ミルは、お互いに迷惑や危害を加えないことで個々人の幸福追求の自由を守る、危害原理を含めた功利主義の思想を発展させた*1。第五章や第六章で触れたように、個人それぞれが自己主張しあうことを前提とし、そうしたなかで市民運動が盛んに行われる欧米社会と、自己主張をお互いに控えあい、デモンストレーションやストライキや子連れの母親にまで迷惑そうな目を向ける日本社会では、ひとことに「功利主義の実現」と言っても同質とは言えない。


 だがさしあたり、お互いに迷惑や危害をかけず幸福追求の自由を守りあう通念や習慣の浸透、そうした社会を支えるための空間設計の洗練という点では、ミルの存命中とは比較にならないほど日本では危害原理が実現している。


 ところが功利主義的な通念や習慣が浸透し、法制度や空間設計がそれを強力にバックアップするようになった結果として、私たちが自由に生きるための功利主義は、事実上、個人の生き方をその自由の枠組みへ、つまり資本主義と個人主義と社会契約のイデオロギーやそれに最適化されたライフスタイルへとはめ込むものになっている。それらに基づいた習慣や通念、行動や振る舞いを実質的には強制されていると言っても過言ではない。


 現代社会で「良い」とみなされているライフスタイルは、ほぼすべて、この三位一体のイデオロギーの内側の選択肢だ。私たちには、成金趣味の消費個人主義に走る自由も、スローライフな喫茶店の店員として生きる自由もあるし、子どもをもうけてももうけなくても構わない。だが、この三位一体のイデオロギーに対するオルタナティブと言えるような思想やライフスタイルを持ち合わせているわけではない。冷戦が終結する頃まで、大都市圏では社会主義がオルタナティブな思想やライフスタイルを象徴していたと同時に、地方では地域共同体に根ざした前─近代的な思想やライフスタイルが成立する余地があった。が、現在はそうではないのである。


 ミルが『自由論』に記した功利主義や危害原理が、現代の個人主義を考えるうえで避けて通れないものであることは論をまたない。しかしミルが展望していたのは、多様な人間と多様な議論が存在しても構わない社会で、マジョリティの思想やライフスタイルがマイノリティに押し付けられる社会や、ブルジョワに端を発した思想やライフスタイルがすべての個人を捉えて離さない社会ではなかったはずである*2


 売買やコミュニケーションの自由、出自や性別に関係なく進路を選択できる自由、結婚してもしなくても構わない自由に関しては、ミルの理想はおおよそ実現したと言える。ところがそれは資本主義、個人主義、社会契約の三位一体という、ブルジョワ階級に端を発した思想やライフスタイルから外れない範囲の実現であって、たとえば地域共同体的な思想やライフスタイルは選択肢としてありえなくなった。もちろん、社会主義もオルタナティブとしての存在感を失って久しい。


 欧米社会では、イスラム過激派に入る若者やテロリズムに走る若者も見られるが、もっと穏健で現実的な選択肢として、私たちにも手が届くオルタナティブは、少なくとも私には見当たらない。


ずっと窮屈になった「他人に迷惑をかけない幸福追求」



 ミルが語った危害原理は、「人間の行動を制限する力の行使が正当化されるのは、他人に害を及ぼしてしまう場合に限られる」といった内容だった。この内容に基づくなら、他人に危害や迷惑をかけない限り、人はそれぞれの幸福を自由に追求でき、そのライフスタイルや思想を制限されることもない──ということになる。


 しかし、この危害原理で言う「他人に危害や迷惑をかけない限り」がまさに問題だ。現代社会において、どのような行動や振る舞いがそれに該当し、どのような行動や振る舞いがそれに該当しないのか。


 ここまで述べてきたように、社会が進歩するにつれて、危害とみなされる行動、迷惑とみなされる行動は変わり続けてきた。たとえば令和時代ではタバコの煙は健康被害をもたらすものとみなされており、昨今の分煙化も危害原理に合致している。しかし一九八〇年の嫌煙権訴訟の判決が示しているように(第三章『かつて喫煙に寛容だった日本社会』)、過去の日本ではタバコの煙が「他人に危害や迷惑をかけない限り」に抵触しているとみなす人は少なかった。


 第五章で論じた問題にしてもそうだ。“デオドラント革命”が起こる前の、街のいたるところが不潔で、いやな臭いが充満していた時代には、他人の臭いを迷惑に感じる度合いも、自分の臭いに羞恥心や罪悪感を覚えなければならない度合いも少なかった。昭和時代の日本は現在ほど清潔ではなく、喧騒や怒号にみちていたが、そういったものに対して私たちはおおらかだった。


 ミルが活躍していた頃のロンドンと比べても、令和時代の日本社会、とりわけ東京は、はるかに快適で健康的で、街を安心して歩きやすい。そうした社会が成立するのと引き換えに、私たちは昭和時代よりもずっと細かなことにも危害や迷惑を感じ取るようになり、他人に対しても自分自身に対しても、そうした行動や振る舞いを許せなくなってしまった。


 ゆえに、ひとことで「他人に危害や迷惑をかけない限り」と言っても、ミルが生きていた頃のロンドンと令和時代の日本とでは、他人に危害や迷惑をかけることなく幸福を追求できる自由の範囲は異なっている。


 より多くの行動や振る舞いが危害や迷惑とみなされる社会、より多くの行動や振る舞いが逸脱として医療や福祉によってマネジメントされなければならない社会では、理念はともかく、現実的に選択可能なライフスタイルはどうしても狭くなってしまう。

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