読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1298494
0
山本五十六と松下幸之助 [比較論]リーダーの条件
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一部 二人の実像

『山本五十六と松下幸之助 [比較論]リーダーの条件』
[著]奥宮正武 [発行]PHP研究所


読了目安時間:46分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


第一章 山本五十六



一 世界最高の名将





 山本五十六は、世界的に見ても、比類のない名将であった。彼が世界の軍事上最大最高の勝利の記録を樹立したからであった。


 昭和十六年(一九四一)十二月八日に開始された太平洋戦争の(へき)(とう)、彼は、東のハワイから西のフィリピン、南シナ海に至る全戦域で、僅かに六日間に、当時世界最強を誇っていた米・英両国の戦艦部隊と航空部隊を攻撃して圧勝した。


 このような広大な戦域で、かつ極めて短期間に、あのような大戦果をあげえた武将はそれまでの世界の歴史になかったし、その後の半世紀にもなかった。そればかりではなく、彼はその後の約四カ月間に、フィリピン、マレー半島、蘭領インドなどの攻略作戦やインド洋作戦でも偉功をたてていた。


 ところで、これは彼の予期したことではなかったが、この緒戦の大勝が有色人種に自信を与え、第二次世界大戦後多数の国家を独立させて、世界に大変革をもたらす主因となった。このことは、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセル、インドのラダクリシュナンなどそれぞれの国の独立を指導してのちに大統領となった人びとの述懐からしても明らかである。それまでは、植民地の人びとは、彼らの主人(ホワイト・マスターズ)には宿命的に劣ると考えていたが、日本軍の活躍ぶりを見て、“有色人種でもやればやれる”との自信をもつに至ったからである。こうして、彼は、結果的に世界史上特筆大書すべき人物となるに至った。


 この評価は、その後の作戦、すなわちミッドウェイ作戦、ガダルカナルやニューギニア方面での作戦が予期に反したことを考慮に入れても、何ら影響を受けることはない。スポーツに(たと)えれば、一旦つくられた大記録は、その後に本人が不振になっても、長く輝いているのと同じであるからである。


 山本が前記のような大記録をつくることができたのは、当時の彼が採用した作戦がたまたま的中したに過ぎない、というような単純な理由からではなかった。次に述べるような然るべき数々の背景があったからであった。


 その一つは、彼が二十世紀に入ってからのわが国の海軍将校の中で稀に見る先見の明の持主であった、ということであった。彼が最初に実戦を経験した日露戦争(一九〇四~〇五)の頃から、わが国はもとより英・米・仏・伊などの世界の主要海軍国でも、大艦巨砲主義、すなわちより大きな艦により大きな大砲を搭載することが強力な海軍をつくるための最良の方法であるということが定説となっていた。そのような時代に、彼は、大胆にも、余人の及ばない発想の転換を行なって、当時、海のものとも山のものともわからなかった航空兵力の将来に着目し、それが将来、海軍部隊の主力となるであろうことを予見した。そこで彼は、輝かしい将来が約束されていた砲術界を去って、敢然と未知の航空界に身を投じたのであった。


 その二は、彼が航空に関する専門知識を持たなかったにもかかわらず、大局的な見地から、航空機の開発に重大な役割を果したことであった。というのは、彼は画期的な手法の数々を採用するとともに、官民の衆知を集めて、僅か十年間に、世界的に見ても第一級の海軍機を続々と完成させたからであった。もちろん、それらの飛行機を乗りこなすことのできる優秀な搭乗員の養成にも努力していた。そして、それらと並行して、自らも航空母艦の艦長、航空母艦をもつ航空戦隊の司令官、さらには連合艦隊の司令長官を歴任して、一時的ではあったが、名実ともに世界最強の海軍航空部隊をつくることに成功した。彼が“海鷲の育ての親”と呼ばれていたのは、以上のことを総称してのことであった。


 それはそうとして、山本は海軍航空部隊の育成やそれを実戦で活用したばかりではなかった。その他の分野でも顕著な活躍をしていた。


 山本は、海外を見る機会が多かったこともあって、諸外国の事情にかなり詳しかった。また、英語が達者であったこと、二次にわたって軍備縮小会議に出席したことなどの経験から、わが国の全般的なあり方にも関心を持たざるをえなかった。そこで、昭和十一年十二月一日に海軍次官になってからは、約三カ年にわたって、二代の海軍大臣、すなわち(なが)()(おさ)()()(ない)(みつ)(まさ)の両大将を補佐して、日本が、過度に、ヒットラーのドイツとムッソリーニのイタリアに近づくこと、いいかえれば、対米戦争の公算を大きくすることの危険性を指摘して、そのような動きに強く反対を続けていた。対米戦争に勝つことは不可能と判断していたからであった。


 しかし、当時の世界情勢からして当然と信じていた彼の努力も、昭和十四年に開始された第二次世界大戦当初の独・伊両国軍の勢いに眩惑されていたわが国の政府や陸軍の強硬論者たちの考え方を変更させることはできなかった。


 それにもかかわらず、十九世紀の半ば頃から、日本の大陸進出政策とアメリカのアジア進出政策は宿命的に対立の方向に進んでいた。そして、昭和十年代に入ってからは両国の衝突を回避することは次第に困難となりつつあった。そのような事情を背景に、紆余曲折の後、アメリカは、昭和十六年十一月二十六日、わが国の政府に対していわゆるハルノートを(しゆ)(こう)した。それはわが国に対して海外にいる軍隊の撤退、日独伊三国同盟の死文化、(しよう)(かい)(せき)政権以外の中国の政権の否認など当時のわが国としては容認し難い事項を要求したもので事実上の対日宣戦布告であった。それを受けて、わが国の政府は対米・英戦に踏み切らざるをえなかった。


 幸いにも、昭和十六年十二月八日の開戦から約四カ月間の作戦は予期以上に順調であった。そこで、昭和十七年四月十日からの第二段作戦の最初に大本営陸海軍部が指示し、山本が計画した作戦は、陸海軍協同によるポートモレスビーの攻略作戦であった。同地が、ニューギニア東部最大の航空基地で、わが方の前進基地ラバウルを脅かしていたからであった。


 第四艦隊司令長官(いの)(うえ)(しげ)(よし)中将指揮の下に行なわれたこの作戦の開始直後にあったのが五月七日~八日の(さん)()(かい)海戦であった。日米両国の航空母艦部隊間で初めてあったこの海戦で、わが方は米大型空母レキシントンを撃沈し、ヨークタウンを撃破したが、わが方も小型空母(しよう)(ほう)を失い、大型空母(しよう)(かく)が傷ついた。したがって、戦術的にはわが方の勝利であったか、ポートモレスビー攻略作戦を中止せざるをえなかったことから戦略的には失敗であった。その時、井上中将の闘志の不足に対して山本は遺憾の意を表していた。


 その直後に実施されたのが五月下旬から開始されたミッドウェイ・アリューシャン攻略作戦であった。六月五日、()(ぐも)(ちゆう)(いち)中将の率いるわが方の空母部隊は、ミッドウェイ基地の米航空部隊と空母三隻を主力とする米艦隊と激戦を交えた。その結果、南雲部隊が空母四隻のすべてを失ったのに対して、米側は空母一隻を失っただけであった。明らかにわが方の大敗であった。


 ミッドウェイ作戦後、山本は、すでに連合艦隊の主力部隊となっていた航空母艦部隊の再建を急いでいた。その途中の昭和十七年八月七日、米軍がソロモン諸島中部のガダルカナル島とその付近の小島に来襲した。それ以後、同方面とニューギニア東部では相ついで激戦が起こった。それは、実質的には、大本営海軍部が主張していた米濠遮断作戦構想が引き起こしたものであった。というのは、将来作戦に備えてガダルカナル島にわが海軍が建設中の陸上飛行場が、米軍に脅威を与えていたからであった。


 同島とその周辺であった彼我の陸海軍部隊間の攻防戦は、航空戦力の差が主因となって、最終的にはわが方の撤退によってその幕を閉じざるをえなかった。昭和十八年二月上旬のことであった。


 ニューギニア方面の作戦と並行して行なわれたこれら一連の作戦は、作戦指揮の不適切や参加した部隊の努力の不足のみによって敗れたとは言い難かった。真の敗因は、航空基地の不足、その質の劣悪さ、航空基地や港湾建設のための機具の貧弱さ、海上輸送能力とその護衛能力の過小、防疫への無関心などであった。言いかえればそれは基礎的な国力の不足であった。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:19281文字/本文:22695文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次