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山本五十六と松下幸之助 [比較論]リーダーの条件
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歴史
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第二部 両者の共通の性格

『山本五十六と松下幸之助 [比較論]リーダーの条件』
[著]奥宮正武 [発行]PHP研究所


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第一章 



 知とは物事や世の中のあり方を正しく理解できる人間の能力のことである。


 人間の社会にはいろいろなことがある。個人に関すること、家庭に関すること、地域社会に関すること、国家に関すること、世界や人類に関することなどがそれである。そして、それらを何が正しいか、どうあるべきかなどのふるいにかけて自己のものとしたものが見識と言えよう。


 広範囲のかつ片寄らない知識を求めることは容易ではない。将来を予測することはさらに困難である。そこで、そうすることができる能力の程度によって人物の評価がなされることが多い。


 別の見方をすれば、知識には他から教えられるものと自らの体験を通じてしか知りえないものとがある。前者は物事を判断したり、他人の言動を評価したりするさいには役立つが、自らの言動を決断するさいにはそうでないことがある。そこに人生の複雑さと面白さがあるように思われる。


 山本と松下は、当時の日本では、稀に見る広汎な知識の持主であった。両者がそれぞれの分野の専門的かつ技術的な知識をもたなかったにもかかわらず、余人の及ばない大事業をなし遂げることができたのは、彼らが片寄らない広汎な知識をもって、常に正義を追求していたからであった。


一 正義の追求





 人間社会には絶対的な善もなければ悪もなさそうである。いずれも相対的なものであるからである。したがって、ある時期、ある地方、ある人々の間で善あるいは悪とされていることでも、時代が異なったり、地域が変ったりすれば、そうでなくなることが珍しくない。


 しかし、人類にも国家にも長い歴史があるので、人道的、国家的に見て正しいと思われること、地域社会や家庭のために望ましいことがほぼ定まっていることは周知の通りである。


 それらを尊重し、実行する人々が多ければ多いほど、個人も、家庭も、地域社会も、国家も、さらには世界の人々もより幸福になるであろうことには疑問の余地がない。


 山本と松下は、何が正しいかを考え、その結果えられたものを実行するために最善を尽したことでは代表的な人物であった。


太平洋戦争開始時の総合戦略


 山本は極めて広汎な知識の持主であった。


 彼は略歴が示しているような長年の海外生活の経験から、同時代の海軍軍人のみならずその他の分野の指導者たちに比べても、はるかに豊かな国際的な感覚を身につけていた。


 彼がわが海軍の将校の中でも傑出していたのは、常に高いレベルから何が正しいかを念頭に置いて国の内外の情勢を判断し、それに基づいて行動していたことであった。それらの中でも注目に値したのは、昭和十五年九月に成立した日独伊三国同盟に、事前に、強く反対したことであった。そのために、彼の言動に不満であった人々から、身の危険を感じたほどであった。



 一方、日本と米国の関係は、昭和の初期頃から次第に悪化しつつあった。紆余曲折の結果、昭和十六年になってからは、尋常一様の手段では戦争を避けることはほとんど不可能になっていた。そこで、日本政府と統帥部は、昭和十六年七月二日の御前会議で、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(対ソ作戦準備、南進ノタメ対英米戦ヲ辞サス)を決定した。そして、その線にそって、七月二十八日には南部仏印への派兵に踏み切ったのであった。


 このような日本軍の行動を牽制するかのように、七月二十五日、米英両国は対日資産の凍結令を発効するとともに、八月一日には、対日石油輸出の全面禁止を行なった。さらに、十一月二十六日、米国務長官コーデル・ハルは、日本政府に対し、対日宣戦布告にも等しいハル・ノートを伝達した。


 それは、海外にいる日本軍の撤収、南京に政府を置いていた(おう)政権の不承認、日独伊三国同盟の死文化など日本政府が受け容れ難いものばかりであった。そして、そのことは、それまで対米交渉の継続に熱意を示してきた(とう)(ごう)(しげ)(のり)外相などでさえも開戦も止むなしと決意させるに至った。


 以上のような国内、国際情勢下にあって、連合艦隊司令長官としての山本が構想していた対米英作戦準備は、単なる軍事作戦ではなくて、国家戦略をも念頭に置いたものであった。


 当時、わが陸海軍の首脳部のほとんどが同意していた作戦は、開戦当初に、わが陸海軍の総力をあげて、東南アジアの資源地帯を攻略して、長期持久の態勢を固めることであった。したがって、連合艦隊の主力は南方作戦、すなわちまずフィリピンとマレー半島の、ついでオランダ領インド(現インドネシア)の攻略作戦に参加させられることになっていた。


真珠湾攻撃の目的


 それに対して、山本は、主として対米作戦の見地から、開戦(へき)(とう)、ハワイ方面にいる米太平洋艦隊の主力を撃滅することが全般作戦上からも適当であると確信していた。そこで、その作戦を断行すべく、大本営海軍部や海軍省の首脳たちに熱心に働きかけて、遂にそうすることを認めさせたばかりでなく、その実施にも成功した。


 これらの事実が証明しているように、彼はハワイ作戦に専念していたのではなかった。南方作戦にも有力な艦隊部隊と航空部隊を派遣していたからであった。


 幸いにも、山本の作戦は予期以上の成果をあげることができた。すなわち、南方作戦では、開戦直後から開始されたフィリピン北部での航空撃滅戦に予期以上の戦果をあげえたばかりではなく、十二月十日には、マレー沖海戦では英戦艦二隻を撃沈することすらできた。さらに、マレー半島とシンガポール、オランダ領インドの攻略、インド洋での英艦隊と航空部隊の撃滅も見事であった。


 このように、山本は、開戦以来僅かに四カ月間に東はハワイから西はインド洋まで地球の約三分の一周、東西の距離では約八千キロ、緯度では約三十五度、南北の距離では約二千五百キロもの広大な地域での大作戦に成功したのであった。


 開戦前、山本は、(おい)(かわ)()()(ろう)海軍大臣への手紙で、「もしハワイ奇襲作戦が成功すれば、単に米海軍戦力に大打撃を与えるだけでなく、『米海軍及米国民ヲシテ救フヘカラサル程度ニソノ士気ヲ阻害セシムルコト』ができるかも知れない」と述べていた。そして、彼が、「(おけ)(はざ)()とひよどり(ごえ)(かわ)(なか)(じま)を一緒にしたもの」であるとしていたハワイ作戦は予期以上の成果を収めることができた。


思わぬ蹉跌


 ところが、山本が予想しなかった事態が出現した。それは、彼が(しま)()(しげ)()(ろう)海軍大臣に繰り返して念を押し、(とう)(じよう)(ひで)()首相、東郷茂徳外相も確約していた対米宣戦通告が、在米日本大使館員と外務省の関係者たちの手違いと怠慢によって、わが空母機動部隊の飛行機隊の攻撃開始時よりも約五十分間も遅れたことであった。


 米大統領フランクリン・ルーズベルトや国務長官コーデル・ハルなどは、それまでの米海軍の研究やその他の情報などから、真珠湾在泊艦船が日本の空母機に攻撃される公算があることを予期していたことはほぼ確実であった。それにもかかわらず、大統領がハワイにいる米陸海軍部隊の指揮官たちに、厳戒態勢をとるように伝えなかったのは、彼が日本軍に先に手を出させることによって、第二次世界大戦への参戦の口実をえようとしたためであった、とされている。


 彼がそのような戦略をとった背景には、米海軍首脳たちが、日本の空母部隊の戦力を著しく低く見積って、たとえ日本の海軍機の攻撃を受けたとしても、被害はかすり傷の程度で、問題にするには当たらない、としていたことには疑問の余地がなかった。彼らがそのように考えたのは当時の米・英海軍航空部隊の能力からすれば無理からぬことであった。


 ところが、彼らの希望的な観測に反して、米国が誇っていた太平洋艦隊の主力である戦艦八隻のすべてが撃沈破された。それは、日本海軍機による文字通りの技術的な奇襲であった。そして、そのことは、米国軍の最高司令官であるルーズベルトにとっては弁明の余地のない失態であった。


 しかし、ルーズベルトにとっては、幸いにも、日本側の対米宣戦通告の遅れがあった。そこで、彼は、技術的な奇襲を日本海軍機による計画的な“だまし撃ち”とすりかえて、“リメンバー・パールハーバー”なる大合唱を起こさせることに成功したのであった。


 もし、日本政府の宣戦布告が、山本が切望していたように、事前に行なわれていたら、ルーズベルトは、米軍の最高指揮官としての器量がきびしく問われて、彼の戦争指導能力は、現実に評価されたものとははるかに異なったものとなっていたであろう。そして、最悪の場合には、攻撃の成果は、山本が予期していた通りか、それに近いものとなっていたかも知れなかった。


南方作戦でも成功


 山本のいま一つの作戦、すなわち開戦と同時に実行されたフィリピン北部での航空撃滅戦は、台湾南部を基地とする海軍航空部隊の零戦隊と陸上攻撃機隊の威力が大きく物をいって、僅かに六日間で終了した。その時、片道五百カイリ以上もある零戦の航続力は米航空部隊関係者を驚かせた。また、十二月十日にあったマレー沖海戦は、航空部隊だけで航行中の戦艦を二隻までも撃沈するという世界史上初の輝かしい記録を樹立して、英首相ウィンストン・チャーチルを驚嘆させた。が、その成功の陰には、開戦直前に、新鋭の一式陸上攻撃機をもつ鹿(かの)()航空隊の本隊を台湾南部からサイゴンに近いツドウム基地に増派した山本の配慮があったことが忘れられてはならない。


 これを要するに、開戦当初のわが海軍作戦の大成功は、山本の、それまでのわが海軍航空部隊育成への努力、作戦任務遂行のための並々ならない熱意、彼が長年にわたって習得していた広汎な知識の結晶であった、といえよう。そして、このことは、常に正義を追求することがいかに大切であるかをも教えていた。


キューバ事件


 松下は、彼の時代の日本人としては非凡な知識の持主であった。彼は、民間人で、実業家であったにもかかわらず、彼の見識は同時代の官民を通じて最高のものであったと言っても過言ではなさそうであった。


 特に注目に値したのは、彼が、常に、国家のこと、世界のことを念頭において行動していたことであった。


 私は、昭和三十九年に松下電器産業に入った時には、正直にいって、松下については全くといってよいほど知らなかった。が、間もなく、彼が同社の社員にいかに信頼され、尊敬されているかを知ることができた。


 私が最初に、彼がただ者ではないと感じたのは、入社して間もない頃、彼から、

一九六二年のキューバ危機のさい、僕がアメリカの大統領であったらどうすべきであるかを考えた」


 との話を聞いた時であった。そのさい、彼は、

僕は国の内外で大きな出来事があるさいには、常に、当事者の立場から対策を考え、それと実際にとられたものとを比較して勉強するように努めている」


 と、つけ加えていた。



 松下が、このように、国家や世界のことなどを総論的に考える一方で、自分の会社という各論的なことを巧みに処理していたことには驚くほかはなかった。


 そうできたのは、彼が国際的に通じる知識を豊富に持っていたからであった。では、彼はどのようにして、そのような知識を持つことができたのであろうか。


初の海外歴訪


 彼は、当時の民間人としては極めて精力的に世界の主要国を歴訪して、それらの国の実情をなしうる限り自らの目で確認することを心掛けていた。彼の足跡は、略歴が示している通りである。


 それらの中でも特筆に値したのは、昭和二十六年に、彼が被占領下の日本から、米国への三カ月間の旅行をして見聞を広めたことであった。特に、民主主義とは何か、税金とは何かについての認識を改めたことは彼のその後の活躍に大いに役立っていた。同年十一月、彼はオランダを訪問し、フィリップス社を見学したのち、同社と事業提携をすることとした。その後、彼は、ドイツ、フランス、イギリスを訪問し、ニューヨーク経由で十二月中旬、帰国した。


 翌二十七年、(たか)(はし)(あら)()(ろう)専務をフィリップス社に派遣し、激しい交渉ののち、同社との提携交渉を妥結させることができた。そこで、同年十月、松下は再びオランダに赴いて、同社との提携契約に調印した。


 昭和三十三年、オランダのユリアナ女王から、日本とオランダ両国の友好親善と経済交流に尽したとの理由で、「コマンダー・イン・ザ・オーダー・オブ・オレンジ・ナッソウ」勲章を授与された。そして、そのことを記念して、関西につくられた日蘭協会の会長に就任した。


 昭和三十四年、松下電器のそれまでのニューヨーク出張所を強化して、アメリカ松下電器株式会社を創立した。日本は貿易によって生きてゆかなければならないので、日本も米国も共に繁栄しなくてはならないとの考えによるものであった。それはまた同年一月十日の経営方針発表会で貿易の強化を宣言したことに基づく措置でもあった。


 昭和三十五年五月、松下夫妻はオランダのユリアナ女王の招待を受けて同国を訪問、六月に帰国した。


PHP活動の再開


 昭和三十六年一月、彼は松下電器の基礎がほぼ固まったと判断して、社長を退いて会長となった。そして、それを機会に、PHP研究所の活動を再開した。同年八月十八日、彼は、京都の東山山麓の真々庵において、新たな活動を記念する行事を真修会と名づけて、次の告辞文を発表した(以降、毎月十八日に、この告辞文は朗読されている)


真修会告辞文

PHP研究所は、世と人の繁栄・平和・幸福実現の願いに立って、昭和二十一年十一月三日に創設されました。

その後一時期、活動をPHP誌発行のみにとどめておりましたが、時いたり、本日、昭和三十六年八月十八日、京都東山山麓真々庵において、新たな活動を再開いたすことになりました。

繁栄・平和・幸福は本来、あらゆる時代のあらゆる人びとがひとしく望み求めてきたものであり、私たちもまたその同じ思いに立って人間の本質に立脚し、古今東西の衆知に教えを乞いつつ、その実現をめざしてゆきたいと思います。

今日、国内外の情勢はまことに変転きわまりなく、私たちは時として、激しい波風に出会い、嵐に襲われることもありましょう。しかし、私たちはいつ、いかなる事が起ころうとも、あわてず、うろたえず、志固く、なすべきことをなせるよう、常日ごろから“治に居て乱を忘れず”の心を養い高めておかなくてはなりません。

所員のみなさんには、毎月十八日を期し“治に居て乱を忘れず”の思いを新たにしつつ、いついつまでも、素直に、誠実に、この意義ある使命に邁進されることを希望するものであります。



 昭和三十七年二月、アメリカの週刊誌「タイム」が彼と松下電器をカバー・ストーリーで紹介した。それでは、松下が単なる実業家ではなく、PHPという精神的な活動をしていることにも重点が置かれていた。


 日本人として初めて同誌の表紙で紹介されたために、昭和三十八年五月に開かれた同社の創業四十周年祝賀会に松下夫妻は招待された。


アメリカでの講演


 同年九月、ニューヨークで、国際経営科学委員会(CIOS)主催の第十三回国際経営会議が、世界から三千人に及ぶ学者、実業家などを集めて開かれた。この席上で、松下は、「私の経営哲学」と題して講演した。


 そのさい、彼はいわゆる過当競争の弊害がいかに大きいかを強調して、「正常な競争は大いにやらなければならないが、過当競争は罪悪である。だから、お互いに何とかしてこれをなくするようにしなければならない」と訴えた。


 講演後の質疑応答で、聴衆の一人が次のように反論した。

松下さん。いまあなたは過当競争は罪悪である、だからそれをやめなければいけないと言ったけれども、私は過当競争は永久になくならないと思う。というのは、人間というものには欲がある。一万ドル儲ければ二万ドルを儲けたい、二万ドルを儲ければ三万ドルを儲けたい。これが人間の本性だ。その本性がある限り、過当競争をなくしようといってもそれはムリだと思う。もし過当競争がなくなるのであれば、私はあなたのお国へ行って、靴をぬいでおじぎをしますよ」


 その質問を受けて、松下はこう答えた。

いまうかがっていると、あなたは過当競争はなくならないという前提でお話をしておられる。確かにそれも一つの見方ですが、私はお互いが過当競争は罪感である、だからそういうことはしてはならないと深く決意する、ほとんどの人がそう考えれば、直ちに過当競争はなくなると思います。


 今日の会議も、どうすればよりよい経営、正しい経営を実現できるか、お互いの知恵を集めて考え、検討しようというものだと思います。その会議に出席しておられるあなた御自身が、初めからそう考えておられるのでは、これはもう、おっしゃる通り、過当競争はなくならないでしょうな」


 昭和三十九年九月、松下が米国のライフ誌で高く評価されたことはすでに述べた通りである。



 彼は、常々、次のような話をしていた。

一人の知恵には限りがある。だから、ともすれば、あちらで迷い、こちらでつまづく。


 わからないことは聞くことである。知らないことはたずねることである。たとえわかっていると思うことでも、もう一度、人に聞いてみることである。


 相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持があるならば、思わぬ知恵が与えられるものである。つまり、一人の知恵が二人の知恵になるのである。二人が三人、三人が四人、多ければ多いほどよい。


 おたがいに一人の知恵で歩まないように心がけたいものである」


 そして、彼は、知識の氾濫については、次のように警告していた。

順調な時代、景気のいい時代というのは、いってみれば、大勢の人々と一緒にやっていれば、いける時代である。それがいまは、それぞれが自分の商売の意義を考え、自分の商売を見直し、自分の立場はどうあるべきかといったふうに、それぞれが持っている自分の役割といったものを、ハッキリとつかまねばならない時である。そうでないとやっていけない時代になっている。


 最近の世の中を見て感じることの一つは、いわゆる知識の取り過ぎということである。知識のゼイ肉がついて、それが邪魔になっている。時間と金をかけて得た知識を消化しきれず、逆に知識が荷物になってしまっている。したがって、能率も悪い。物事をもっと素直に受け止めようにも知識が邪魔をして素直にいかない。いまの日本を見ているとそんな感じがする。


 栄養過多が決して健康体ではないと同じように、知識のゼイ肉がつくのも健康な姿ではない。別の言い方をすれば、知識を使いこなす主体となる“人間”の成長が十分に伴っていないということである。学問もよし、知識の習得もよい。しかし、それを消化し、使いこなすだけの人間の成長がないと、せっかくの学問も知識も生きない。


 ただの知識の肥満児では、手間ばかりかかってしようがない。『これはこうや』といって、すぐに『はいわかりました』とはいかない。『そうはおっしゃいますけど…』ということになったり、一言なかるべからずになったりして、手数がかかり、能率も悪くなる。


 文明はいろいろな面で目を見はるほどに発達したけれども、それだけのことを成し遂げながら、逆に世の中は乱れている。知識は発達したけれど、知識ばかりが大手を振って歩いて、かえって災いになってしまっている」


二 先見の明





 先見の明とは、絶えざる向上心がある人びとがもつ将来を見通す能力のことである。


 世の中には旧来からの思想、学説、伝統的なやり方を踏襲している人びとが意外に多い。このことは、官界、学会、実業界などいずれの分野にもある。従来通りのことをやっておれば、失敗が少ないからである。人事考課のさいに、該当の人物の得点があることよりも、失点の少ないことが重視されがちであるのはそのためである。


 しかし、時代は刻々と変化している。したがって、常に、“なぜ?”、“どうして?”との疑問をもち、それを解決しようとする人びとに道が開かれるものであることを歴史は教えている。


 山本と松下は、常に、自らが担当していた分野の進歩のために努力を惜しまなかったことでは、他の人びとの追従を許さなかった。


軍政学の権威


 山本が先見の明に勝れていたことを示す例は極めて多い。


 その一つに、彼の海軍大学校教官時代のことがあった。大正十二年、山本とともに同校の教官であった(いの)(うえ)(つぐ)(まつ)中将は次のように回顧していた。

われわれが海軍大学校の教官であった時代には、同校の教育も研究も、戦略、戦術に偏重していて、海軍行政の全般に(わた)る軍政学に関しては、それが極めて重要であったにもかかわらず、何となく一般の関心が薄かった。軍政学の教育が極めて困難であるからでもあった。


 それにもかかわらず、山本は教官に任命されるや、誰もが忌避していた軍政学の教官に進んでなり、持前の不撓不屈の精神を発揮して、一人で全学生の教育を担当した。そして、時には不眠不休で、何人も追従しえないほどの努力をして、わが海軍の軍政学の基礎を確立した。その後、軍政関係の要路についた諸官は、いずれも、直接あるいは間接に、山本教官のこの努力の恩恵を受けているといっても過言ではない」


海軍航空に着目


 いま一つ、特筆に値したのは、山本が軍事技術、特に航空のそれの進歩について、極めて的確な見通しをもっていたことであった。


 山本は、海軍少尉候補生時代に早くも実戦に参加した。彼が参加した日本海海戦は、世界の海軍指導者たちに、海軍部隊の主力は大きな艦に大きな大砲をのせた戦艦であることを認めさせた点では画期的な出来事であった。このことは第一次世界大戦(一九一四~一九)でも確認されたので、その後、世界の主要な海軍国に、大艦巨砲主義の全盛時代が到来した。したがって、第一次世界大戦の頃から実用化されつつあった潜水艦や飛行機などは、主力艦の威力を発揮させるための補助兵力に過ぎないとされていた。


 ところが、二十世紀に入ってしばらくして、軍事技術の顕著な進歩が見え始めていた。わが海軍が飛行機の採用を決定し、輸入した水上機が国内での初飛行に成功したのは大正六年(一九一七)十二月二日のことで、場所は神奈川県の(おつ)(ぱま)であった。


 わが海軍機は、第一次世界大戦の青島(チンタオ)攻略戦のさいに、初の実戦に参加したが、同港内の偵察に成功したに過ぎなかった。そして、その後も機材の不備や操縦技術の未熟のために、はかばかしい進歩を遂げることができなかった。そのような状態であったので、危険が多い飛行将校を志願する優秀な将校は極めて少なかった。したがって、海軍の主流であった砲術界に属し、将来の栄進が約束されていた山本が航空界に入ったことは極めて特異なことであった。


 山本は、大正十三年九月一日に(かすみ)()(うら)海軍航空隊付に、同年十二月一日、同隊の教頭兼副長に任命された。が、当時、彼は航空に関する専門的な知識も技能も全くといってよいほど持ち合わせていなかった。それにもかかわらず、彼は諸外国での見聞から察して、航空部隊が将来、海軍の有力な戦力となるであろうと予見していた。そこで、彼は、同航空隊に在隊中に航空部隊の実情を見聞するとともに、可能な範囲で、その改善に努力した。同時に、多数の航空界の人びとを直接に知ることができたことは彼の将来にとっては幸いであった。



 大正十四年十二月一日、彼は在米国日本大使館の海軍武官に補せられた。そして、約二カ年間の在任中、彼は世界の航空界の実情に関心を持ち続けていた。特に、昭和二年に米国の青年飛行家チャールズ・リンドバーグが初の大西洋無着陸横断に成功したさいには、海軍武官補佐官の()()(よし)(たけ)大尉に、詳細な調査を行なわせて、その結果を東京に送っていた。


 昭和二年末に帰国した彼は、軽巡洋艦五十鈴(いすず)の艦長をへて、同年十二月、航空母艦(あか)()の艦長に任命された。そして、約一年間、航空部隊指揮官としての経験を積んだ。


 その後、短期間、海軍省軍務局に勤務したのち、山本は、昭和四年十一月十二日、ロンドン会議参加の全権委員の随員となった。そのさい、彼は英、米、仏、伊という主要海軍国が抱えている問題の大要を察知することができた。



 昭和五年十二月一日から約三カ年、山本は航空本部技術部長の職にあった。わが海軍機の機体、発動機をともに国産しようとの構想は、昭和六年の半ば頃から、時の航空本部長(あん)(どう)(まさ)(たか)中将などに持たれていたが、それを実行に移したのは、昭和六年十月に航空本部長になった(まつ)(やま)(しげる)中将と技術部長の山本であった。両者を補佐したのは、技術部首席部員であった(さくら)()(ただ)(たけ)機関大佐と同部の計画主任の()()(みさお)大佐であった。


 山本は、海軍航空の自立政策を確立させるために、海軍の技術陣と主要飛行機製作会社の幹部や技師たちを激励して、研究開発のための画期的な発想の転換を強く要望した。


 その結果、試作されたのが、昭和七年に開発が開始された七試艦上戦闘機であった。本機はそれまでの艦上機がすべて複葉であったのに対して低翼単葉機であった。不幸にも本機は不合格になったが、えられた教訓は後に大いに活用された。


 一方、洋上を遠く飛ぶことを目的とした特殊な八試特偵(昭和八年に試作が開始された特殊な偵察機)がつくられた。本機は最初から武装をしないという特長が発揮されて、所期以上の性能をもった陸上双発機となった。この時山本は非常に喜んで、試作機に同乗して、関係者の労をねぎらい、彼らとともに喜びを分け合った。本機に武装が施されたものが、九六式陸上攻撃機、すなわち日華事変の当初、渡洋爆撃を行なって有名になった飛行機となった。


発想の転換


 昭和九年に試作が開始されることになっていた戦闘機は艦上戦闘機とは呼ばれず、単座戦闘機と名づけられた。これも山本の示唆によるものであった。


 もともと、海軍の戦闘機は航空母艦に搭載することを前提につくられていた。したがって、飛行機の最高速度は発着艦時の滑走距離に左右されていた。ということは、設計にさいしては、航空母艦の発着甲板の長さを考慮せざるをえなかった。


 当時のわが海軍の航空母艦、すなわち赤城、()()(ともに三層甲板)(ほう)(しよう)の発着甲板の長さは、いずれも約百五十メートルであった。そして、そのこと自体が単葉機の開発のさいの最大の障害になっていた。


 このことを部下の技術者から聞いた山本は、即座に、「航空母艦あっての飛行機ではない、飛行機あっての航空母艦である。したがって、必要があれば、空母の発着甲板を長くすればよい」との助け船を出した。そして、彼は、海軍の関係部局の責任者たちを説いて、赤城と加賀の発着甲板を二百四十九メートルとすることに成功した。


 こうして、出来たのが九試艦上戦闘機、すなわち後の九六式艦上戦闘機で、最高速度は約四百五十キロであった。本機の最高速度は複葉の九五式艦戦のそれを約百キロも上回っていた。また、本機は低翼単葉の全金属製機でもあった。


 これらのことは、勝れたリーダーは、部下から、“できない理由”よりも、“できる方法”を求めていることを教えた好適例であった。


 昭和八年十月に第一航空戦隊司令官になって、再び、第一線の航空部隊の指揮官を経験した山本は、昭和九年九月、ロンドンでの軍縮交渉での帝国代表として英国に出張して、見聞を広めることができた。


 以上のような数々の体験をもっていたからであろう。山本は海軍航空部隊のあり方についても勝れた先見の明をもっていた。その一つは戦闘機の重要性に関するものであり、他の一つは水平爆撃技術の向上に関することであった。



 昭和九年から十年頃にかけて、海軍では、艦上戦闘機の戦力について疑問が抱かれていた。主な理由は、九六式陸上攻撃機の最高速度が当時実用されていた九〇式艦上戦闘機よりも速くなったこと、搭乗員一人の艦上戦闘機の洋上行動能力に不安があることであった。海軍航空の大御所的存在であった(おお)西(にし)(たき)()(ろう)大佐や戦闘機の権威とされていた(おか)(むら)(もと)(はる)(げん)()(みのる)両大尉などですら、その説の支持を明言していた。そのために、それまで例年七(ない)()八名養成されていた戦闘機操縦将校が昭和十一年には僅かに二名にまでなっていた。


 そのような海軍部内における空気の中で、昭和十年十二月に海軍航空本部長になった山本は、戦闘機重視の方針を確認するとともに、新しい戦闘機の開発を奨励していた。その成果が現われたのが十二試艦上戦闘機、すなわち後の零式艦上戦闘機であった。


 もし、彼が、時流に迎合して、戦闘機軽視の説を支持していたら、後のゼロ戦は生れてこなかったかも知れない。


 航空部隊の増勢に欠かせないのが優秀な搭乗員である。航空機の製造にはマスプロがきくが、搭乗員をそうすることは容易ではない。山本が、周囲の反対を押し切って、創設したのが甲種飛行予科練習生制度であった。昭和十二年九月一日に初めて二百五十名が採用されたこの制度がなかったら、その後に急速に増勢された海軍航空部隊は所要の人員を確保することができなかったと思われる。この練習生の数が、太平洋戦争中、他のいかなる搭乗員のソースのそれよりも多かったからであった。



 昭和十四年八月、山本が連合艦隊司令長官に親補された直後にあった連合艦隊の戦技(海軍の各術科の戦闘能力を競技によって評価すること)における艦上攻撃機による水平爆撃の命中率は悪かった。


 その直後、山本の旗艦(なが)()に海軍の爆撃関係者のほとんどを集めて行なわれた研究会では、航行中の艦船に対する水平爆撃は、労が多く効果が小さいので、廃止し、移動目標に対する攻撃は急降下爆撃によるべきである、との意見が圧倒的に強かった。ところが、この会議の最後に立った山本は、

私が連合艦隊司令長官である限り水平爆撃は止めない。諸官の一層の努力を望む」


 と明言した。同席していた私はかねてから水平爆撃を重視していたので特に深い印象を受けた。


 もし、彼のこの確固たる熱意の表明がなかったら、艦上攻撃機をもってする水平爆撃訓練は中止されたかも知れなかった。もちろん、艦上攻撃機をもってする雷撃に対しては、山本は大なる期待をかけていたが。


 このように検討してくると、山本の先見の明がわが海軍航空部隊の戦力の向上にいかに具体的に役立ったかが理解できよう。


 以上のいずれの山本の対策が欠けていても、太平洋戦争の開戦直後に海軍航空部隊のあげえた戦果は実際にあったよりもはるかに小さかったであろうことは想像に難くはなかった。各方面におけるわが海軍航空部隊の作戦の成功は、単なる作戦指揮の妙によってえられたものでなかったからであった。


事業部制の採用


 松下もまた、極めて稀な先見の明の持主であった。


 そのことを最もよく示していたのは、彼が電灯がようやく一般の家庭に普及し始めた大正時代の初期に、電気業界の将来に着目したことであった。


 このことは、また、彼が特定の官庁や大企業に過度に拘束されることなく、不特定多数の消費者の生活の向上に役立つことができるという幸運に恵まれていたことをも物語っていた。


 そのほかにも、多くの具体例があった。


 その一つは、昭和八年、事業部制を採用し、各事業部を独立採算制に近いものとして、自主独立の経営体制をとらせたことであった。


 彼は、生来、病弱であった。そのために、事業の規模が小さかった頃には、当然、対外的に重要なことのほとんどを自分で処理せねばならなかった。が、そうできないことがしばしばあった。そこで、彼は、若い社員たちに自らの代理をさせるべく、手をとり足をとって、彼らを教育した。そのために、社員のほとんどが低学歴者であったにもかかわらず、年月の経過とともに人材が育っていった。また、彼は、自らが小学校すら卒業していないことを逆手にとって、自らより高学歴者の経営する会社に劣らないようにするにはどうすればよいかを考え、努力していた。事業部制はその成果の一つであったのである。


 人間は、責任を持たせれば、それに答えるべく、努力する性格をもっている。事業部制はそのような人情の機微を巧みに利用したものでもあった。


 前大戦後、米国の大企業が種々研究の結果、採用した会社の経営法の一つが、松下の事業部制によく似ていたことは驚くべきことであった。そのために、米国人の中には松下の先見の明を高く評価した人々がいた。


 昭和十年十二月、松下はそれまでの松下電器製作所を松下電器産業株式会社と改め、同時にそれまでの事業部制を発展させて分社制を採用し、事業部門別に九つの子会社を設立した。それらは、松下無線(ラジオ、部品)、松下乾電池(乾電池、ランプ)、松下電器(配線器具)、松下電熱(電熱器)、松下金属(金属部品)、松下電器直売(官庁向け販売)、松下電器貿易(輸出入)、松和電器商事(提携会社製品販売)、日本電器製造(合成樹脂製品)であった。


 この改組によって、松下電器産業株式会社は、特殊会社として、主として人事、管理の面で各分社を管理し、各分社には、事業部制の時よりも一層徹底した自主責任経営を行なわせることにした。そうしたことは、研究、生産、販売などの効率化に役立ったばかりでなく、人材養成の面でも貴重な収穫が多かった。なお、以上の分社のほかに、資本、取引の面で密接な関係をもつ“友社”として、ナショナル蓄電池、岡田電気商会、朝日乾電池、増井電器製造などの会社があった。


 以上の措置は、当時の日本の大企業のほとんどが事業を研究、製造、販売などの部門に分けて、本社で総合監理していたのとは大差があった。



 昭和三十一年一月の経営方針発表会で、松下は、電化ブームを予見して、大構想の五カ年計画を発表した。すでに述べた通り、彼が、その経歴から、近代的な科学技術についての学術的な素養をもたなかったにもかかわらず、そのような大計画を思いついたのは、彼の物事を素直に見る性格のためであった、と思われる。



 いま一つ、電子計算機の開発に関することがあった。彼は、昭和三十九年十月、それまで松下通信にやらせていた電子計算機の開発の中止を命じた。


 当時、松下電器は、日立、東芝、三菱電機、富士通、日本電気、沖電気とともに日本電子工業振興会をつくって、高性能の電子計算機の開発をすすめていた。そして、過去約五年間に、その研究開発のために約十億円を投資していた。


 ところが、同年、チェース・マンハッタン銀行の副頭取が来日した時、松下は、同氏から、アメリカでも電子計算機のメーカーのほとんどは経営不振で、IBM以外の会社は利益をあげていない、との話を聞いた。そこで、彼は、日本に七社もあるのは多過ぎると判断して、同業界からの撤退を宣言したのであった。


 彼のこの決断に対して、社の内外から異論が多かったが、一年もたたないうちに、彼の決定が賢明であった、との評価に変わっていた。


 当時、私は松下通信にいた。そして松下電器の多くの研究所、事業部を訪問した結果、松下電器は単品の製造には極めて勝れているが、システム的な製品に関しては、他の大企業にかなり遅れていると感じていた。よい電子計算機をつくるには広汎なシステム的構想が必要である。したがって、松下電器の幹部がこのことをよく理解するまでには、かなりの年月が必要であると感じていた。電子計算機は、レーダーとともに、大型プロジェクトの中心的な存在である。現在の松下で本格的にシステム的なことを扱うには荷が重過ぎる。したがって、今後当分の間は、電子計算機は他社に委せる方がよい。その間、松下電器は得意な分野を強化して、将来、機が熟した時のための資金を準備しておく方が賢明である。松下はそのことを十分に念頭に置いているのではないか、と私は理解していた。結果的に、このことは、松下の先見性を示す一コマになったのであった。



 松下は、製品の意匠に関しても、勝れた感覚をもっていた。自社の製品が単に品質がよく、適切な価格であればよいとは考えていなかった。ところが、当時のわが国では、機械類の意匠についてはほとんど考えられていなかった。松下は、海外での見聞から、機械でも意匠のよいものがよく売れることを知っていた。そこで、彼は、わが国の大学で唯一つ意匠の研究をしていた千葉大学の学長に懇請して、講座担当の真野善一教授を、新しくつくる意匠部の部長に迎えた。昭和三十年のことであった。


週五日制の発表


 昭和三十五年一月の経営方針発表会で、松下は「五年先に週五日制を実施する」と発表した。当時、わが国の経済は、「岩戸景気」といわれた好況に支えられて、順風満帆の状態であった。が、彼は、日本経済は、貿易の自由化、為替の自由化などの海外の要望から、国際の舞台での商売の真剣勝負を余儀なくされるであろう、と直感していた。そこで、彼は、好況に酔うことなく、「国際競争に打ち勝つために、週二日の休日を目標に働こうではないか」と呼びかけたのであった。



 昭和三十六年一月の経営方針発表会で松下は、松下電器の社長を退任して同社の会長となった。その主な理由として、彼は、前年の十一月二十七日に満六十五歳になって一つのふし目を迎えたこと、会社の経営に没頭したいとの精神には変りはないが、体力がこれを許さないことをはっきりと知ったことなどをあげていた。この決断は、当時のわが国の、そして、会社のオーナー的存在であった人物としては極めて異例なことであった。このことは、また、彼が人間とは何であるか、会社を活性化するにはいかにすべきかを示した好適例であった。


 しかし、その後も松下の精神力は少しも衰えなかった。というのは、同年八月にPHP活動を再開したからであった。このことは、彼が、単なる実業家ではなく、社会、国家、人類といった幅広いことを研究する必要があることをよく知っていたことを物語っていた。



 このような幅広い活動が認められたのであろう、昭和三十七年二月、彼は世界的に名の知れた、アメリカの週刊誌「タイム」のカバーストーリーにとり上げられた。また、昭和三十九年にはアメリカの週刊誌「ライフ」が彼を「最高の所得者、温情主義者、思想家、ベストセラーの著者」と紹介した。そればかりではなく、同誌は、彼を、「フォードとアルジャーの二人を一人で兼ねているパイオニア」であるとまで称賛していた。言うまでもなく、フォードはアメリカの自動車王であり、アルジャーはアメリカの牧師兼作者で十九世紀に活躍した人物であった。



 同年のわが国の不況は深刻であった。そこで、松下は、関係会社の人々の意見を聞き共に難局を克服するために、「共存共栄」のスローガンをかかげて、自ら営業本部長となって、苦境の打開に努めた。



 昭和四十年一月、彼は、会社の役員や労働組合から強い慎重論があったにもかかわらず、かねての約束通りに、週五日制を断行することを発表した。そして、その実施後の結果が予想外によかったことが、彼の先見性が勝れていたことを実証していた。


欧州を抜く賃金の提唱


 昭和四十二年一月の経営方針発表会で、松下は、

他社との調和を失することなく、松下電器の賃金を、欧州を抜いて、アメリカのそれに近づけるように持っていきたい」


 と提唱した。社員に生き甲斐を与えるためであった。そのことは、また、日本の経済レベルを一段と高めることをも意味していた。その結果、会社の内容に改善が加えられて、早くも、昭和四十六年には、松下電器の賃金は、欧州の中でも最も賃金が高いといわれていた西ドイツのそれと肩を並べ、約束の五年後には欧州を抜いて、アメリカに近づいていた。


 松下電器の事業の主体は生産である。通常、新製品の研究開発には二~三年はかかる。そして、試作品を販売の軌道に乗せるにはさらに約二年が必要であった。したがって世間から歓迎される製品を大量につくるには約五カ年先を見通さねばならなかった。


 松下が多くの事業に成功していたことは、同時に、彼が極めて的確な先見の明をもっていたことを如実に示していた。


三 衆知の活用





 人知の進歩には際限はないが、個人の能力には限りがある。したがって、いかに才能に恵まれた人物でも、一人では大事をなすことはできない。そこで、衆知を集めることが必要となる。


 このことは、為政者はもとより、実業家、学者、作家、芸術家などでも変ることはない。いかなる著名人でも、数の多少や程度の差はあっても、協力者、補助者を欠かすことはできない。


 しかし、ここに注意しなければならないことがある。それは、たとえ多くの人々の知恵を集めたとしても、それを活用できなければ、宝の持ち腐れになるということである。


 衆知を集める方法にはいろいろある。が、わが国のような国では、通常、組織の下位にいる人々の知恵は、その組織系統に沿って、順次に上位の人々に伝えられることになっている。この方法は、組織の秩序を保つという見地からは無難であるが、時間がかかり過ぎる欠点がある。


 そこで、山本と松下は、いわゆるショート・サーキットを認めて、組織の効率化、活性化を奨励していた。この点でも、両者は異色のリーダーであった。


特異な戦略の研究方法


 山本は衆知を集めることを特に重視していた。航空に関することでは特にそうであった。


 彼は、自らが生え抜きの航空の専門家でないことを自覚していたので、実地の体験者の声には耳を傾けていた。が、彼は、航空部隊に身を置くようになった時には、すでに、海軍将校としては一流の経験を積んでいたので、内外の情勢に明るかった。したがって、航空関係者の意見は尊重していたが、彼らに迎合はしなかった。


 山本が、海軍航空の進歩に画期的な役割を果したことはすでに述べた通りである。が、そのほかに注目に値することが多かった。


 昭和十五年の半ば頃から、日米の関係は次第に悪化していた。そして、昭和十六年に入ってからは、対米・英戦争は不可避の状態に急速に近づきつつあった。そこで、山本は、連合艦隊司令長官として、止むなく、最悪の事態に備えざるをえなかった。


 そのさい、彼は、万一、対米戦争が開始された場合には、米太平洋艦隊の主力をハワイの真珠湾で撃滅するのが最良の戦略であると確信していた。そこで、昭和十六年一月下旬、そのさいの作戦計画案の作成をひそかに部下の参謀たちにつくらせるとともに、海軍航空生え抜きの権威者である大西瀧治郎少将にも依頼した。大西少将は、当時、南方作戦を担当する予定であった第十一航空艦隊の参謀長に就任したばかりであった。しかし、彼は、航空母艦をもってする作戦の経験がなかったので、細部にわたる研究については彼が最も信頼していた源田実中佐に依頼した。同中佐は、当時、第一航空戦隊の航空参謀であったが、昭和十六年四月十日に新編が予定されていた第一航空艦隊の航空甲参謀に予定されていた航空母艦作戦の精通者であった。


 当時、大西少将の直接指揮官は第十一航空艦隊司令長官(つか)(はら)()()(ぞう)中将であり、源田中佐の直接の指揮官は第一航空戦隊司令官()(つか)(みち)()(ろう)少将であった。したがって、真珠湾攻撃計画案の作成の一半は、非公式な、すなわちショート・サーキットの線でつくられたものであった。


異色の参謀たち


 昭和十六年の半ば頃の連合艦隊司令部の幕僚には特長のある人物が多かった。参謀長の(ふく)(どめ)(しげる)少将に代って、八月十一日付で第八戦隊司令官であった()(がき)(まとめ)少将が着任した。同少将は、第八戦隊司令官の前には軍令部第一部長であった。彼は、海軍大学校の教官時代の海戦要務令の改正に努力したことで、海軍作戦の権威として自他ともに許していた大艦巨砲主義者であった。首席参謀の(くろ)(しま)(かめ)()大佐の前職は海軍大学校教官であった。彼は、奇行に富んでいて、自室を暗くして、その中で瞑想にふけるという特異な性格の持主であった。航空参謀の()()()(あきら)中佐は、頭がよい飛行将校であったので参謀や海外勤務が多く、航空部隊の実情にはあまり詳しくなかった。通信参謀の()()(ゆう)()(ろう)、航海参謀の(なが)()(しげる)、戦務参謀の(わた)(なべ)(やす)()の各中佐は、いずれも、それぞれの分野での優秀者であった。


 昭和十六年十一月三日、すなわち、(なが)()軍令部総長が最終的にハワイ作戦を決裁した日に、三和義勇大佐が作戦参謀に任命された。彼は、海軍航空界の逸材で、山本大将が最も信頼していた人物であった。彼は、約二カ年間の海軍省軍務局での勤務を終えて、一カ月ばかり前に霞ヶ浦航空隊教官になったばかりであった。航空作戦を重視していた山本が、開戦に先立って特に希望した人事であった。


 同年十二月一日、すなわち開戦前の最後に、政務参謀(ふじ)()(しげる)中佐が着任した。彼は、他の参謀たちが山本長官に心酔していたのに対して、山本という大将のやり方をなしうる限り客観的に観察することに努めていた、と私に語ったほどの異色の存在であった。彼は、軍務局などでの経験から、海軍や陸軍の軍政関係者に知人が多く、陸軍部隊との協力をせざるをえない連合艦隊司令部では貴重な人材であった。


 山本は、このようないろいろな性格や考え方の参謀たちからの助言をえていたほか、直接の指揮下にない人々、特に航空の専門家たちの意見を聞いた上で、最終的な決意を固めたのであった。そして、そのことが、あのような広範囲にわたる作戦計画をつくるさいに大いに役立ったことは言うまでもなかった。


画期的な指揮系統


 戦略的な作戦計画の検討と並行して、山本は、航空部隊、特に空母搭載の飛行機隊の能力発揮のための工夫を凝らしていた。それまでは、航空艦隊司令長官の命令は、航空戦隊司令官を、ついで航空母艦の艦長を通じて、各艦に搭載されている飛行機隊の指揮官に伝達されることになっていた。そのようなやり方を墨守する限りでは、六隻の空母の飛行機隊を、同時に、かつ単一の命令で、効果的に運用することなどできなかった。そこで、各空母に搭載されている飛行機を機種(ごと)に、戦闘機隊、爆撃機隊、攻撃機隊(それはさらに水平爆撃隊と雷撃隊とに分けられていた)に編成し、各機種をそれぞれ一人の指揮官に、さらに全飛行機隊を一人の総指揮官に指揮させることとした。


 このように、一見、ショート・サーキットとも思われる画期的な発想は、山本の海軍部内における重みと信頼を抜きにしては考えられないことであった。


 私の知る限りでは、たがいに意見を異にする海軍航空の傑物たちが山本を自らの師と仰いでいた。このことは、彼のところに、片寄った情報のみが伝達されることを防ぐのに大いに役立っていた。


巧みな衆知の集め方


 松下は衆知を集めることでは天才であった。そのことを端的に物語っていたのは、彼が“聞き上手”であったことであった。そして、そのことが、見るべき学歴のなかった彼が、日本のみならず世界でも第一流の技術者集団を率いて見事な実績をあげることができた主因であった。


 彼は実によく人々の話を聞いていた。一般的にいって、ほとんどの大企業のトップは、部下の報告を聞くさいでも、聞くよりも話すことが多い傾向があった。が、松下は、事業に直接の関係のある人からも、ない人からも、またいろいろの分野の人びとからも、ごく素直に話を聞いていた。部下と対話する時間が一時間あれば、四十~五十分は聞く方に回っていた。


 彼は、そうしてえた知識を総合して自己の意見をまとめ、学術的にも、技術的にも、それぞれの分野の専門家から見て、一目を置かれるような事業を推進していた。



 衆知を集め、それを利用することについて、彼は次のように語っていた。

ものごとを決断するさいに気をつけていなければならないのは、社の内外から聞こえてくるさまざまな雑音である。それらの雑音には、もちろん耳を傾けないといけない。雑音を全部遮断してしまうと、独断になる恐れがあるからである。だから、雑音にも耳を傾けなければならないが、それにとらわれて心を乱されてはいけない。必要なのは雑音を聞きわけるということである。それができない経営者は誤診しやすい。そして、その影響は極めて大きい。


 いま一つ心しなければならないのは、雑音の中には善意のものが少なくないということである。しかし、それがまちがっていては大変なことになるから、それは除かなければならない。そのためには正否を見抜かないといけない。会社のためにしてくれる発言でも、時にはそれがまちがっていることもある。その場合、経営者としては、その誤りを正すだけのものを持っていなければいけない」



 松下電器の技術担当の副社長であった()(さか)(しゆん)(きち)は、松下は、技術開発に関しては、情報収集の名人で、きびしい内容のターゲットの設定が巧みで、“できる”という信念の持主で、かつ徹底的にフォローする人であった、といっていた。そして、そのフォローについて、次のように語っていた。

ある人から成功の秘訣を問われて、相談役は、『それは成功するまで徹底的に追求することである』と答えられていた。


 病院にいる時でも、食事中でも、ふと思い出すと、『あれはどうなっているか』と電話してこられるし、また、今からそちらに行くといって、ご自分で実際に現場を見にこられた。午前中に会議をやって昼食が遅れて、さてこれから昼食を、という時に相談役から電話がかかってくる。このようなことがちょいちょいあった。


 VTRの開発時でも、少なくとも十回は、ご自分でお客様を案内してこられた。ビデオディスクの場合でもお客様がこられるたびに全部自分で案内されて、これはもう二十回かそれ以上になったかも知れなかった。そして、そのたびに、担当者がする説明をご自分でもずっと聞いておられた。あの忍耐力といったらもう大したものでした。普通の人であれば、もう三回も聞いたから、もうそのことは知っているから、とこういうことになると思われたが」


ショート・サーキットの容認


 松下は、毎年一月十日に行なわれる松下電器の経営方針発表会その他で、衆知を集めることの重要さを強調していた。そのため、わが社では、ショート・サーキットを認めているので、そのことを問題にしてはならないと厳に戒めていた。そして、具体的には次のように説明していた。


 例えば、ある若い社員が、何かについてよい提言がある時には、課長が不在であれば部長に、部長が不在であれば、直接に事業部長に申し出るべきである。そして、事業部長が適当と思えば直ちに実行に移せばよい。時間が貴重だからである。そして、課長や部長が帰社して、過去の経験その他から、提言による施策が不適当であることがわかれば、その時に、中止すればよい、とのことであった。


 このことは、松下電器で衆知が活かされていた一例であった。しかし、そのようなことは、全社員から絶大な信頼が置かれているリーダーがいなければ、言いえて行ない難いことは言うまでもない。



 昭和三十七年四月、松下電器本社の総合朝会で、松下は、社員の提案の重要さについて述べた。そのこともあって、松下電器では、社員が会社に関することで改善の必要がある、と感じた場合には、それを提案箱に入れることが奨励されるようになった。それらの中で特に優秀なものには報奨が与えられたが、その数は年とともに増加して、昭和五十三年の第六十回創業記念の年には年間百七十万件にも達していた。それは従業員一人平均十二、三件に相当し、賞金は一億円にもなっていた。


 松下は、提案について次のようにも話していた。

たとえ、直ちに採用できないものがあっても、それを無視したり、非難してはならない。会社のために提案しようという心が貴重である」


 彼は、衆知を集めることを部下委せにはせず、自らもそうすることに努力していた。

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