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「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相
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歴史
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1 あいまいな天下人の〈基準〉

『「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相』
[著]鈴木眞哉 [発行]PHP研究所


読了目安時間:8分
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 武将たちの格付けについては、いろいろ考え方はあろうが、相撲番付のようなものをつくれば、横綱の位置に座るのは、天下取りに成功したとされる人たちだろう。主役中の主役ともいうべき彼らは、一般に「天下人」と呼ばれている。だが、どういう基準に合致した者が天下人と認められるのかという、ちゃんとしたモノサシがあるわけではない。


 実は、この問題については、『天下人史観を疑う』(洋泉社・新書y)などで取り上げたことがあるのだが、武将たちがどう見られていたかを考えてみようというのに、その頂点にいる者たちの〈判定基準〉を素通りするわけにはいかないだろう。いま一度、その歴史から話を始めさせていただきたい。


 天下人は天下を取った人だが、その「天下」というのは漢語であって中国最初の正史(国が正統と認めた歴史書)『史記』などにも出てくる。日本にも、早くから〈輸入〉されて、六世紀の終わりごろには、すでに使用されていた。もっとも、本来の意味では、中国大陸を中心とする世界の全体を指すものだったが、わが国に入ってくると、縮小されて日本全土を指す言葉となった。


 これに対し、「天下人」というのは、戦国時代後期に出てきたと見られる和製の漢語であるが、官職名などではないから確たる定義はない。いつできたかもわからない一般的な呼称である。ただ、天下人という言葉はなくても、〈天下取り〉という観念は早くからあったし、天下人と同じ意味で「天下の(あるじ)」などという形容も用いられたりしていた。


 実質的な意味で天下人第一号とされているのは源頼朝(一一四七〜九九)である。これもいつだれが決めたというわけではないが、むかしからそう見られている。足利尊氏(一三○五〜五八)、豊臣秀吉(一五三七〜九八)、徳川家康(一五四二〜一六一六)など、のちに天下取りをしたとされた者たちも、頼朝を〈大先輩〉と考えていた。


 その頼朝は、東国で独自の政権らしきものを立てて、「天下の草創」などと言ったけれど、日本全国を制覇したわけではない。最大で九カ国ほどの知行国(自分が租税を収納できる国)と相当数の荘園を押さえていたにすぎない。また、首都である京都を手中にしていたわけではないし、まして朝廷を押さえ込んでいたわけでもない。


 これで天下人と言えるなら、頼朝が幕府を開くより二百五十年も前に東国で独自の政権を立てた平将門(?〜九四○)も同じではないか。いや「(しん)(こう)」と称して京都の「本天皇」と張り合おうとした将門のほうが、〈天下人性〉は、頼朝より高かったかもしれないが、むかしもいまも将門を天下人と認めた人はいない。天下人を測るモノサシは、はじめからきわめていい加減なのである。


 頼朝の直近の〈先輩〉としては、平清盛(一一一八〜八一)()()()の源(木曾)義仲(一一五四〜八四)もいる。清盛は、武力によって院政を否定し、国政の実権を握って平氏政権といったものを打ち立て、自分の意思で遷都まで実行した。そのため、後世、天下人のように見られたこともあるが、クーデターによって、一時、国政を掌握した義仲については、そういう声はなかった。


 頼朝の立てた幕府は、彼の血統が絶えたのち、妻の実家の北条家に実権を奪われた。北条家は義時(一一六三〜一二二四)の代に、承久の乱(一二二一)で朝廷勢力を撃ち破り、日本全国をほぼ支配下に置いた。北条義時が天下を掌握したということは、足利家がつくった『建武式目』(一三三六)も認めているし、『太平記』にも書かれている。


 毛利家の家臣・玉木(よし)(やす)の自伝「()()(かがみ)(一六一七)には、平清盛とともに、北条義時も天下を取った人だったという趣旨のことが書かれている。二十世紀になって(しぶ)(さわ)(えい)(いち)の編んだ『徳川慶喜公伝』(一九一七)も、清盛や北条家を武家にして天下の政権を握った者としている。武家の支配の下では、それは一種の〈歴史常識〉だったらしいが、今日ではほとんど通用しない。


 足利尊氏が天下を取ったということは、いまでも認められているが、当時は北と南に二人の天皇が並立するという状況があった。そのため正確には、尊氏も天下つまり日本全土を押さえたとは言いがたい。それが解消されたのは、尊氏の孫の三代・義満あたりからである。


 戦国時代になると、足利家の天下というのは形式上のものとなり、実権はしだいに下のほうへと移っていった。いわゆる「()(こく)(じよう)」現象というものである。(かん)(れい)(将軍を補佐して幕府の政務を総括する最高責任者)の細川政元(一四六六〜一五○七)などは、自分の意思で将軍の首をすげ替えたりした。そういうことができた政元はまさしく天下人と言うべきだったが、そうした声は当時もいまもない。


 その細川家も家臣の()(よし)(なが)(よし)(一五二二〜六四)に実権を奪われる羽目になった。長慶については、比較的古い史料にも「天下主」(『当代記』)、「天下の主」(『北条五代記』)、「天下執権」(『信長公記』)などと形容されているし、武田の史料『甲陽軍鑑』も、長慶が天下を支配していたとはっきり記している。同時代の人たちは、彼を天下人と見ていたのである。


 だが、長慶は、最盛期の永禄元年(一五五八)ころでも、近畿、四国などにまたがって一〇カ国近くを支配していたにすぎない。その程度で天下人とはなんだという声もありそうだが、実は、このころになると、「天下」の意味はさらに縮小されていた。京都を中心とする日本の中央部、時として京都を指して、そのように呼んでいたのである。


 この当時、来日していた宣教師の書いたものを見ても、「天下」はそのように理解されている。彼らは、これを「日本王国」とも呼んで、それと「全日本国」とをはっきり使い分けている。「日本王国の主」すなわち天下人なのである。


 長慶が病死すると、彼の〈天下〉は遺臣である松永久秀(一五○八〜七七)や三好三人衆(三好(なが)(ゆき)・三好政康・(いわ)(なり)(とも)(みち)の手に(ゆだ)ねられた。松永は(かん)(ゆう)として悪名高い男だが、「天下之執権」と評されたこともある(『当代記』)。宣教師のルイス・フロイスも、永禄六年(一五六三)ころ、彼が「天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していた」と『日本史』に記している。長慶在世中から、松永は実質的な権力を握っていたようである。だが、後世になると、そんなことは、きれいに忘れられてしまった。この点は、故主の長慶と同じである。


 織田信長(一五三四〜八二)は、松永たちに殺された十三代将軍・足利(よし)(てる)の弟の(よし)(あき)(かつ)いで上洛し、彼らを打ち負かして義昭を将軍のポストに据えたが、やがて仲違いして義昭を追い出した。かくして信長は天下人ということになった。彼は、本能寺で死んだ時点では、同盟者だった徳川家康の領地まで勘定に入れても、日本六八カ国のうち、約三〇カ国を押さえていたにすぎなかったが、間違いなく「日本王国の主」ではあった。信長のふりかざした「天下布武」という有名なスローガンもそうした角度から理解すべきである。


 その信長を倒した明智光秀(?〜一五八二)は、「三日天下」という言葉もあるくらいだから、いったんは天下人と認められたのかもしれないが、後世人は、そうは考えていないだろう。その光秀が殺されたのち、羽柴秀吉が織田家の家督に()した信長の孫の秀信、やはり秀吉が一時、織田家の家督として扱っていた信長の次男・(のぶ)(かつ)にしても似たようなところがある。


 結局、秀吉が天下人となったが、彼は北から南まで日本全土を完全に掌握してしまったから、「日本王国の主」としての天下人ではなく、「全日本国の主」としての天下人である。秀吉のあとを受けた徳川家康も同様である。ただし、戦国時代までは、まだ()()(北海道)も琉球(沖縄県)も日本の内とは考えられていなかったから、当時の「天下」は、今日の日本国の領域よりもまだ狭かった。


 このように見てくれば、天下人かどうかを判断する基準が、かなりあいまいだったという意味は、おわかりいただけたと思う。どうしてそうなったかと言われても適切な答えはないが、それは理屈の問題ではなく、多分に〈気分〉の問題であり、数の問題であったからだと言えるだろう。


 歴史は多数決で決めるべきものではないが、かなりの程度までは数の問題であることは、イギリスの歴史家E・H・カーという先生も言っているとおりである。だれそれは天下人だという見方に追随する人が相当数いれば、それが通るし、いなくなれば通らなくなるまでのことである。これは歴史上の人物の評価全般にも通ずることである。


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