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誇れる国・インドと日本 仕事・家族・教育、それぞれの文化と生活
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ルポ・エッセイ
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第2章 家族との絆

『誇れる国・インドと日本 仕事・家族・教育、それぞれの文化と生活』
[著]塩谷サルフィマクスーダ [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間5分
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Love is always Mutual, Reflective.


お母さんとの出逢い


 筆を執ると、過去という名のページが頭の中でめくられていきます。


 どこから始めようか? と思う間もなく、私の心は川の流れよりも速く走っているのです。過去二〇年の間に、天国だったカシミールは地獄へと変わってしまいました。それを運命と呼ぶのか、運と呼ぶのか、さだかではありません。


 カシミール紛争が始まる前、一九八〇年にモンゴルに留学したのも運命的な出来事ですが、そこで一人の日本人男性と出会って私の新しい一ページが開くことになりました。このページに引かれた黒いインクは、今でも私の人生の文字を綴り、私をより強く日本、そして金沢に結びつけていると感じます。


 出会って結婚した日本人男性は、まだ学生だったために、別居生活が始まりました。はじめは経済的にも困難な時期が続きましたが、精神的にはとても親密な関係でした。見知らぬ新しい土地での生活、新しい人たちとの出会い、話せない日本語、私の二人の子供たち、何の支えもない孤独──でもそれらは夫の愛によって乗り越えていける気がしました。


 夫の愛は強くて、美しいと感じました。彼が家に帰ってきた時はいつも、もう一度恋に落ちた気分になりました。また彼は、私の親友のような存在でもありました。別居していたにもかかわらず、彼の愛は私の人生をカラフルにしてくれたのです。


 私は今、彼との出会いに、三つの感謝をしています。


第一の感謝 彼がお母さん(義母・塩谷澄江/愛称ちゃーちゃん)と出逢わせてくれたこと。

第二の感謝 二人の子供を授かったこと。

第三の感謝 彼が忙しい(ひつぎ)に足を踏み入れ、私を置き去りにしたことで、かえって数多くのよき人たちに恵まれたこと。



 とりわけ、第一の感謝については、感謝をしてもし切れないほどの気持ちがあるのです。お母さんなくしては、今日の私もなかったでしょう。お母さんと私は、出逢うより以前に、不思議な縁で結ばれていました。



 それは今から三八年前、私がまだお母さんと出会っていなかった頃の話です。


 お母さんが洋服屋さんの前を通りかかった時、ショーウィンドーに可愛らしい服が飾られていたのですが、彼女は自分が着もしないし、着せる娘もいないのに、その服を買ってしまったのでした。すると一着買うと次々に飾られていく服が欲しくなり、買い続けていると、とうとう五〇着にもなってしまったのです。どうしてそんなことをするのか彼女にもわかりません。


 やがてお母さんの息子と私が結婚することになり、嫁入りのためにインドから来たのですが、お母さんが買った数々の服のサイズが私にピッタリだったのです。

「ターラちゃんと私とは、出逢うようにすべて決められていたんだと思うよ」


 と、お母さんは言いましたが、本当に不思議なことがあるものです。


 でも、お母さんが言ったように、私とは巡り会う運命だったのかもしれません。


 一九八三年七月。お母さんが夫となる彼と一緒に私を迎えに来てくれた時、私はお母さんをひと眼見て、懐かしさを感じました。文化も違うし、言葉もまったく通じないお母さんに、なぜ親しみをおぼえたのかというと、その時はわからなかったのですが、彼女の中に私のお父さんの姿を見ていたのだと思います。


 お母さんの考え方は女性でないみたいな男性の感覚で、すごく前向きでした。悩むのではなく「あなたならできる。大丈夫、何とかなる」といった、父と同じような性格だったのです。


 もちろん最初の頃は、私は日本語がほとんどできませんし、お母さんは英語もモンゴル語もわかりません。でもお母さんが言葉を一つずつ教えてくれて、それを書いたりして、会話している感じでしたが、わからない時はお母さんが一生懸命に聞いてくれました。ターラは何が言いたいんだろうと一心に聞いてくれて、単語を加えたりして、「これか?」とか。「ああそうそう」とか、そういったその喜びをお互いに感じて、言葉というのは本当におもしろいものだと思います。


 これは今でも本当に不思議に感じますが、お母さんとは気が合うというレベルではなく、まるでジグソーパズルのピースがおさまるようにピッタリだったのです。


 それで、父に話したくてもできなかった、誰にもできなかった、積もりに積もったモンゴルのお土産話を、お母さんに聞いてもらったのでした。それは本当に、お母さんの中に父がいるようだったのです。


夫を支える


 こうして一九八四年から、私の日本での暮らしが始まりました。同居家族はお母さんと大工をしているお父さん(義父)、そしておばあちゃん(祖母)との四人で、石川県の“かほく市”で住み始めたのです。夫の兄弟は兄が一人いましたが、その兄は独立して大阪で家庭を築いていました。


 一緒になってすぐに家族の問題に直面しました。その頃夫はまだ大阪の大学に通い、寮に単身で住んで勉強しており、当然のことながら、卒業して働かなくては収入を得ることができません。


 お父さんとおばあちゃんは彼が勉強を続けることに猛反対でした。すでに中学や高校で英語を教える教員免許を持っている彼にお父さんは、男は家族を養うためには勉強よりも仕事を優先させるべきだと怒りました。



 今にしてみればここは日本なのですから、彼の言うことは正しかったかもしれませんが、当時の私はまだまだインド式の考え方が大部分を占めていました。


 第1章でも書きましたが、インドでは収入は家族全員のための共有の財産です。働かない者がいれば、働く者が養う義務があります。こうした文化の違いも私には驚きとショックがありました。


 また、次男夫婦をその親が養うのは外聞が悪いと人の眼を気にするお父さんやおばあちゃんに、それならどうして私を受け入れたのかと最初は不思議に思い、さらには長男だから、次男だからといった制度感覚のない私は理解に苦しみました。


 でも夫はモンゴルに留学し、モンゴル語にも()けて、モンゴル研究者への道を、強く望んでいたのです。


 私は彼を応援し続けるしかないと考えましたが、日本では頼る友だちもまだなく、日本語もたどたどしいレベルだったので、途方に暮れるばかりでどうやって彼の力になれるのかもわかりませんでした。


 その頃は町の人の協力を得て、公民館で細々と英語を教えていましたが、その程度の収入では彼を支えることは到底無理だったのです。


 幸い、お母さんだけは夫の夢に理解がありました。私は夫とお母さんに相談し、三人で将来に関していろいろな話を始めました。


 その結果、インドにいる私の友だちの力を借りて、地元でインド料理店を開こうということになったのです。その友だちはインドの空港内のレストランで支配人をしていて、以前彼がインドを訪れていたお母さんに、「石川県でインド料理店を出すなら、僕が協力しますよ」と言っていたのでした。


 その頃はまだ石川県には一軒のインド料理店もなかったのです。


 もちろん商売などしたこともない私とお母さんです。資金も場所もどうしていいのかもわからない状態で、簡単に実現できる話ではありません。でもお母さんは私と夫にこう言って励ましてくれたのです。

「お母さんが何とかするから心配しないで。ターラ(私)ちゃんの夢も、あなた(夫)の夢も同じだから私が何とかする。あなたは安心して勉強しなさい」


 私と夫はその言葉に勇気づけられ、彼は毎日手紙を書くと言って涙ながらに大阪へと帰っていったのでした。


愛のために


 私は夫の実家で暮らし始めたのですが、正直いうと、習慣も言葉も知らないので、寂しくて不安が募りました。でもお母さんやお父さん、おばあちゃんも私と同じでとても不安だったに違いありません。言葉も通じないこの嫁とどう生活していけばいいのかと考えていたと思います。


 でも当時は──夫への愛の強さ、お互いの信頼、同じ夢を分かち合う──そのすべてがあったからこそ孤独に耐え忍ぶことができました。だんだんと生活になじむにつれ、私は彼が帰ってくる春、夏、冬休みを待つのが楽しみになっていきました。


 やがて私は妊娠をしたのですが、お父さんとおばあちゃんは、収入のない私たち夫婦に子供ができることをとても心配していました。お母さんだけは笑顔で、

「ターラちゃん、心配しないで。大丈夫だよ」


 と言ってくれましたが、彼女がいつもお父さんとおばあちゃんと言い合い、(かば)ってくれていることは、言葉がわからなくても薄々勘づいていたのです。


 お母さんは私を安心させるために、出産予定日が近づいてきた頃、インドから私の母と妹を招待までしてくれました。


 こうして月日が流れ、子供も生まれると、それまで決して明るいとはいえなかった家の中に、子供の泣き声と大人の笑い声が一緒に響くようになっていきました。みんなで子供をあやす。その時は文化も宗教も超え、人と人とが心を通じ合わせ、その強い力が温かい家庭へと変身させるのです。


 私はずっとインドの両親の言葉を信じています。それは、どこに行ったとしても人間の原点──自然体で、生まれながらの姿、はだかの状態でいれば、ちゃんと生活ができるということ。自分に素直な心、相手を思いやる心、いたわる心さえあれば、習慣や文化、言葉の壁は崩れてゆく。この言葉を毎日毎日自分に言い聞かせ、寂しさやつらさを乗り越えてゆく努力をしたのでした。



 そのうち、私とお母さんとの絆に、大きな変化が起きてきました。一人の男のために二人の女性──息子を愛する母と夫を愛する妻──にとって、彼を支えることが明確な目標となったのです。人は愛のためなら何でもできます。何も見えなくても、ただ彼の夢の実現に向かって、彼を守っていくことしか、二人の女性の頭の中にはありませんでした。でもこの二人の女性の決断が、将来、私と主人との分かれ道になろうとは、この時はまだ夢にも思わなかったのです。


 人間は神様ではありません。だから将来の神様の箱の中(日本でいう神の手の中)には何が入っているのか、自分にはわかりません。人はプランを立てて実行しようとしますが、それを見て神様は笑っているかもしれません──Man Proposes, God Disposes.(人は提案するが神は処分する)。


 そこで、人間の無力さ、虚しさを感じます。


 将来において自分が大きな苦しみを味わうとわかっていれば、その道に入ることはなかったでしょう。今考えれば、後の祭りですが、いくら思っても仕方のないことです。


 ただ、主人との分かれ道はずっと先のページまでめくらないといけません。今少し、私とお母さんたち家族との生活を綴っていきましょう。



 私が石川県で生活を続けている間、夫は京都の大学の大学院に入る準備をしていました。京都でアパートを借りて受験勉強を始め、試験を受けたのですが、その年は不合格でした。もう一度頑張ると言う彼に、「今度は大丈夫よ」と励ましてはみましたが、お父さんが同意しなければどうにもなりません。


 夫はお父さんとお母さんに話をして、もう一年頑張らせて欲しいと頼みました。もちろんお父さんは大学院をあきらめて、仕事をすることを勧めました。私たちは必死にお願いし、この時もお母さんが夫の味方をして、何とかお父さんを納得させたのでした。


 その結果、一年後には夫は大学院に合格し、研究を続けることになったのです。合格の一報を受け取った時、うれし涙がとめどなくあふれたのを憶えています。お母さんとも「よかったよかった」と二人で喜び合いました。


 でもこの瞬間に、私と夫との離れ離れの生活の基礎というものが、できあがってしまっていたのです。


家族の風景


 日本に来た当初、語学の勉強のために一時期、大阪にいる義兄の家に住まわせてもらったことがありました。そこでいろいろとつらい生活を味わい、人間不信にも陥ったのでした。

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