論理で感覚を否定することはできない
一九五〇年代後半生まれの私は、戦後の民主主義イデオロギーの社会化の流れと時を同じくして、進歩的文化人が声高に唱導した日本人の後進的異質性の否定と、その裏返しとしての強烈な国際人願望を刷り込まれながら、教育を受け、大学を卒業して社会人となった。この刷り込みに疑いをもつこともなく、三十歳を前にして、米国の大学院に留学し、卒業後も米国のグローバル企業(多国籍企業といったほうがよいかもしれない)の本社に入社し、日本人コミュニティと交わることもなく三十代のほとんどをアメリカとヨーロッパで過ごすこととなった。そして、自分は、日本人の後進的異質性を克服し、名実ともに、国際人になれたのではないかと密かに感じていた。
しかし、十年を経て一九九五年、久しぶりに日本社会に復帰した折に、帰国子女であるワイフともども実感したのは、「やはり楽だな」であった。これは言葉の問題ではない。社会に漂うエートスの問題である。
自分は他と異なる何であるかを主張しつづける、相互独立的な西欧的性向(エートス)とは異なり、日本人という意識が溶けてしまって無意識に、「なんとなく、日本人」でいられる相互協調的な性向(エートス)が、日本にはある。論理・言語を超えた子宮のなかの羊水に浮かぶような安堵を感じ、「やはり、自分は日本人だな」と実感した。
いくら国際人を気どっても、日本人であることの個体性(差異)を否定することはできないのである。論理をもって感覚(実感)を否定することはできない。腑に落ちないのだ。私は自分が日本人であることを、所与として認めざるをえなかった。国際人という共通を求める前に日本人という差異を認めざるをえないことを実感したともいえる。
当たり前の話であるが、日本文化や歴史の知識や日本人のアイデンティティをもたずに、国際人にはなれない。たとえば、なぜ日本人は「忠臣蔵」が好きかをアメリカ人に説明できないといけない。しかし、自分(日本人)の思考をきちんと理解していないと、せいぜい「日本人は判官びいきですから」という説明で終わってしまう。一方、アメリカ人から見れば、四十七士は体制に反抗するテロリストである。「判官びいき」では、日本人はルールを守らないテロリストが好きということになってしまい、それでは中国人の「愛国無罪」よりもたちが悪いかもしれない。
もっとまずいのは、「やっぱり、日本人は変だからね」といって、あたかも自分はふつうの日本人とは違うという態度に出ることである。これは説明の責任放棄に等しい。「ヤスシはふつうの日本人とはだいぶ違うからな」とボスや同僚にいわれていた当時の私は、この状況に近かった。基本的には、「日本人の否定のうえに国際人がある」という進歩的文化人のドグマを信じていたのである。差異を否定して共通に目をやる、というユートピア的発想である。
翻って、アルカイダによるニューヨークの世界貿易センタービルへの自爆テロ(二〇〇一年九月十一日)をきっかけに、「文明の対立」は一挙に顕在化した。差異は解消し、世界は同質に収斂するというグローバリゼーションは多幸症(euphoria)であり、楽観的にすぎる。むしろ、巨視的歴史の流れが示すように、文明には「近代の普遍的な思想・価値観を生み出した顔」と「民族と宗教に立脚する固有の思想・価値観を主張してやまない顔」の二つの顔があるということが頭をよぎる(『日本文明とは何か』山折哲雄、角川書店、二〇〇四年)。
「すべてはグローバルに一元化する」という側面のみが強調されるグローバリゼーションであるが、実際のグローバリゼーションは、それほど簡単なものではない。「グローバリゼーションは、ローカルなコミュニティから人々をグローバルな世界へ放り込むと同時に、ローカル・コミュニティのアイデンティティの主張とその維持(自律分散化)を可能とし、多様性を許容する」(アンソニー・ギデンズ)という、相反する大きな流れを許容しているものである。これをグローバル・パラドクスという。
フランスとオランダで実施された国民投票が、EU(ヨーロッパ連合)拡大に「ノー」を突きつけたのは、低賃金移民による職の喪失という経済的な問題もあるが、ローカルな多様性支持の声がいかに大きかったのかを示している。
海外経験が比較的に長い筆者には、日本人は、「なんとなく、日本人」でいることができるとても幸せな国民であると映る。だが、このような幸福はグローバリゼーションのもとで、過去のものとなりつつある。急激な「活動としてのグローバル化」のなか、「なんとなく、日本人」を楽観的に維持するのはもはや難しくなりつつあるのが現実である。日本的なるものの物理的・心理的境界が、急速に曖昧になってきているからである。
加えて、日本人自らの手によって、「なんとなく、日本人」の基盤が破壊されようとしている。「構造改革」「グローバル・スタンダード」の名のもとで行なわれている「国際人」焼き直しの動きがそれである。市場原理最優先の新古典派経済学を支えとする構造改革は、国民の支持というよりは、貿易障壁論(英語では、structural impediments といい、要は、彼らにわからない文化にかかわる慣習を構造的障壁といっているのである)に代表される欧米諸国の圧力が背景にあるのが現状であると筆者には映る。
日本的なるものの論理的腑分け
それでは、この「なんとなく、日本人」という居心地のよさは、もはや維持不可能なものなのだろうか。
もし、グローバリゼーションが、「ローカルなコミュニティから人々をグローバルな世界へ放り込む」だけであり、差異を無視して共通のみを志向する進化のごとき冷酷な同質化であるならば、維持は不可能であろう。しかし、現実のグローバリゼーションは、一律にすべてをグローバル化し、共通化しようとするベクトルだけではない。「自律分散化を可能とし、多様性を許容する」という差異を強めるベクトルもあわせもつ。すなわち「活動としてのグローバル化と軸足としてのローカル化」である。あのカルロス・ゴーンでさえ、日産自動車を再び、グローバルな市場で生き残れるグローバル・カンパニーにしようとしている一方で、「ニッサンのルーツは横浜である」と強調している。
つまり、軸足としてのローカル化の視点で、「なんとなく、日本人」を問い直す必要があり、その感覚の論理的腑分けができれば、「なんとなく、日本人」であるという安堵感を維持することは可能であるかもしれない。
われわれが心しなければいけないのは、日本は、欧米(とくに英米)のようにグローバル・パラドクスを考慮する必要のない国々とは違う環境に置かれているということである。この事実を考慮しない構造改革は、非現実的な机上の空論にすぎない。行き着くことのない蜃気楼のごとき「国際人」と、同じ道をたどることになるであろう。現在の日本の論調は、「活動としてのグローバル化」にしか目が行かず、「軸足としてのローカル化」の視点が欠落していることを、強く認識する必要がある。
ローカル化とは差異であり、グローバル化とは共通の問題である。差異とは認識の問題であり、共通とは模索の問題である。ゆえにこの共通は最大公約数か最小公倍数なのであって、差異の認識を無視しては、共通化は成り立ちえないはずである。
以下、各章を通じて、差異としての日本的なるものの論理的腑分けを試みることとしたい。共通を模索するのではなく、自国文明の差異を問うことを、右寄りというのであれば、それは大きな間違いであると筆者は考える。
グローバル・パラドクスの時代にあって、これまでの主流である「和」や「場」の重視という「現象的」な日本人論や、無意識と自我の連続性や他者配慮的心性等の「概念的」な日本人論は、「日本的なるもの」というブラックボックスのメカニズムを解明しない神話のごときものであり、こうした日本人論は打ち捨てなければならない。
現在のように日本的なものを形態的伝統と混同し、過去を振り返るのみでは、「変わらないために変わる」のではなく、「変わりたくないので結果的に変わってしまう」という結末を迎えることになる。このような悲惨な結末を断固として避け、「変わらないために変わる」ためには、「日本的なるもの」の本質を見極める必要がある。