読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1300263
0
なんとなく、日本人 世界に通用する強さの秘密
2
0
0
0
0
0
0
人文・科学
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第五章 日本的思考メカニズム

『なんとなく、日本人 世界に通用する強さの秘密』
[著]小笠原泰 [発行]PHP研究所


読了目安時間:25分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

決められた範囲のなかで考える


 小学生の娘がイギリスの学校に通っていたのだが、ある日算数の宿題に、「ここに、二〇〇〇から三〇〇〇までの線分がプロット(表示)されています。三三五〇はどこかプロットしなさい」というものがあった(過激なものは、解答用紙の裏まで使わないとできないものもある)。ちょっと面白いなと感じたが、大人から見れば、別段難しいわけではない。しかし、娘は首をひねっている。なぜと聞くと、日本の学校で同じ問題が出れば、二〇〇〇と三〇〇〇の間の数字を聞いてくるというのである。たしかに日本であれば、間の数字を聞いてくるなと思った。娘にしてみれば、決められた範囲の数字の位置であれば、考えるのは簡単であるが、限定された範囲の外をどう考えるかは、習ったことがないというのである。


 考えてみれば、日本の考え方は、この例にもれず、拡大していくのではなく、範囲を決めてそれを細かくしていく傾向が強いと感じることが多い。些細なことだが、考え方の基本にかかわることであるなと感じた。


 また、よくいわれるように、日本人には、欧米的な意味での論理的首尾一貫性はない。むしろ、このような論理的首尾一貫性を必要としないというべきかもしれない。たしかに、「場をわきまえろ(その集団内での役割からの逸脱や文脈ルール違反が行なわれていることを指している)」といわれないように、「場違い(場の文脈をまったく理解していない)」や「場を外す(場の文脈の想定外の振る舞いをする)」ことを極力避けるようにし、なんとか「場をしのぐ(その場の文脈をなんとか外さないようにする)」ことに注力するために、「うそも方便」をいとわぬ日本人に、場を超えた一貫性を求めることは、そもそもなじまないのではないか。つまり、日本人の論理の一貫性の境界は場であり、場を超えた論理の一貫性を求める欧米人と論理の意味するところが違うのである。


 論理的思考などという本を繰り返し売るためには、「日本人は論理的でない」というほうが好都合であるだろうが、欧米人と論理の境界が異なることを理由に、日本人は論理的でないなどとまじめにいうのはきわめて乱暴な議論である。翻って、場で論理が閉じるのであれば、場を超えた論理的一貫性を求める欧米人と日本人が異なる論理的思考をしていると考えるのがふつうではないだろうか。


 そもそも、「私はうなぎだ」とか「こんにゃくは太らない」とかいった意味論中心で、構文が意味をなさない言葉を、なんの不自由もなく日常使っている日本人の思考が、硬直的な構文中心の言語生活を送っている欧米人の思考と一緒であると思うほうがおかしいのではないか。日本の言語的土壌には、欧米的な思考はなじまない。


 この彼我の思考の違いは歴然としているが、日本人の行動態度を規定している基本的な思考は無意識のうちになされており、いわばブラックボックス化している。そこで本章では、自己構造の違いも踏まえて、この日本的思考をメカニズムとして明らかにしてみたい。


日本人の最大境界


 第四章で触れたように、相対的自己構造をもつ日本人の意識は、述語の決定が示すように、まず相手と自己との相対的位置の確認に向けられる傾向が強い。この意味で、日本人の名刺交換に代表される肩書きの確認は、自分の相対的位置を確認するうえできわめて重要であり、単なる儀礼行為や肩書き主義と捉えるべきではない。


 この相対的位置の確認は重要で、一般の投書にもあらわれているように思う。日本では、実名はなくとも、投書者の職業・性別・年齢がまず間違いなく載っている。この三つの項目を知れば、読者は、だいたい投書者の社会的な位置が見えるわけである。新聞の投書欄などは、専門家のコラムではないのだから、投書者の属性よりは内容が重要だと思うのだが、多くの日本人にとっては、投書の内容のみならず、属性のほうも重要なのである。


 投書者の職業のなかには、無職、主婦、はたまたラーメン評論家など職業とは思えないものもある。実際に必要なのは、本来の意味での職業ではなく、社会的に見て投書者は何者か(社会的な位置)なのである。なぜなら、投書者の社会的な位置がわからないと、自分と投稿者の距離感(相対的位置)がわからず、投書の内容を理解するための文脈設定ができなくて困るからである。


 論理的に考えると、三者以上の間で、自己の相対的位置を確定するには、まず集団の境界設定が必要なのは明らかであろう。境界が設定されなければ、自己の相対的位置を確定するための基準が得られないからである。子供が通うイギリスのテニススクールでは、生徒の子供たちが三々五々集まり、時間になると何やらレッスンが勝手に始まるのだが、これが日本人のテニススクールでは、そうはいかない。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:10473文字/本文:12428文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次