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アニメ大国 建国紀 1963−1973 テレビアニメを築いた先駆者たち
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エンタメ
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第二部 建国期

『アニメ大国 建国紀 1963−1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』
[著]中川右介 [発行]イースト・プレス


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第五章 『鉄腕アトム』革命前夜 ──一九六二年


不可能な数字


『鉄腕アトム』をテレビ用アニメーションにしようという坂本雄作の思いつきは、手塚治虫の「やりましょう」の一言で、現実化していく。


 とはいえ、まだ「やる」ということだけしか決まっていない。虫プロダクションは前例のないことをやろうとしているのだ。どういう規模でどういう内容のものをどういうサイクルで作るのか。そのためにはどれくらいの人員が必要なのか。


 テレビ番組とするのであれば、週に一本のペースで作らなければならない。子ども向けのテレビ番組の一般的な単位は三〇分だ。アメリカ製のアニメーションで一〇分、一五分ものもあったが、それはギャグ・アニメで、『鉄腕アトム』はストーリーのあるアニメーションを目指す。となれば、三〇分だ。


 東映動画は二〇〇人以上のスタッフで、九〇分前後の長編アニメを年に一本作るのがやっとだ。手塚も関係した『西遊記』は八八分で、原画一万二一九八枚、動画七万五七五八枚を必要とした。三〇分としたらその三分の一なので、単純に三で割れば、原画約四〇〇〇枚、動画約二万五〇〇〇枚を毎週描かなければならない。


 別の観点から数字を見れば、映画は一秒二四コマなので、三〇分番組で実質二五分だとしても一五〇〇秒となり、動画は三万六〇〇〇枚が必要となる。もっとも、アニメーションの場合、同じ絵を二コマ撮ることもあるので、そうすれば半分ですむが、それでも一万八〇〇〇枚だ。


 東映動画では一九六一年から、原画五人、第二原画一〇人、動画三〇人、トレース一五人、色彩三〇人、合計九〇人で年に九〇分前後の長編一作を作る体制を敷いていた。単純計算では、三〇分ものならば年に三本作れる。しかし毎週一本ということは年に五二本作らなければならないのだ。

「三〇分もののテレビアニメ」については、東映の大川博社長もNET開局時に、東映動画に指示したことがある。しかし、山本善次郎が「できるわけない」と一蹴し、この話はなくなった。一応、試算してみたところ、三〇〇〇人のスタッフがいなければ不可能という数字が出て、とてもそんなに雇えないので、以後は話題にも上らなかった。大きな組織によくあることだが、一度「できない」と結論が出たものは、よほどのことがないと再検討されることはない。東映動画では、そして東映でもNETでも、テレビ用アニメーションが企画されることはないまま、一九六二年を迎えていた。


 かくして日本最大のアニメーション・スタジオでありながら、東映動画は出遅れる。


実はおとぎプロが持つ「初」の栄誉


『鉄腕アトム』は「日本初の連続テレビアニメ」と称されるが、正確には「日本初」ではない。内容も規模も異なるが、「日本初の連続テレビアニメ制作者」の栄誉は、横山隆一のおとぎプロダクションが持つ。


 手塚治虫がアニメーション作りに乗り出したころ、一九六一年五月一日に始まった『インスタント・ヒストリー』こそが、「国産テレビアニメ第一作」だった。フジテレビで毎日一七時四七分から五〇分までの三分間の番組で、そのなかの一分間がアニメで、一日ごとにその日に起きた歴史的な出来事を紹介する内容だった。鈴木伸一はじめ七人のアニメーターがひとりで一週間に一本ずつ作り、六二年二月二四日まで一年半にわたり放映された(放映時間は、変動する)。その後、六二年六月二五日からTBSに移り、『おとぎマンガカレンダー』と改題して一年間作られ、二年目は再放送して、番組そのものは六四年六月二五日まで二年間続いた。演出・作画・美術として横山隆一の他に、鈴木伸一、町山充弘らの名も挙がっている。


 並行して作っていたのが『プラス50000年』という九分の短編だ。アメーバーから爬虫類、猿から人間へ、そして人間はどこまで進化していくのか、進化論をアニメーションで描くもので、鈴木伸一が構成・演出・動画を担った。一九六一年一〇月に完成し、フランスのトゥール国際短編映画祭で上映され好評だったが、劇場公開の機会はない。日本での上映は六四年三月になる。


 一九六二年八月二五日、「総天然色長編漫画」として『おとぎの世界旅行』が東宝系で封切られた。一九六〇年に完成していながら、公開の機会がなかったものだ。東宝の特撮怪獣映画『キングコング対ゴジラ』が一一日に封切られ、当初はザ・ピーナッツ主演『私と私』との二本立てだったがヒットしたのでロングランとなり、三週目の二五日から『おとぎの世界旅行』との二本立てになった。

『おとぎの世界旅行』は「総天然色長編漫画」とあるようにカラーで七六分、東映動画の長編に匹敵する規模の作品で、横山隆一が制作・原作・監督を担った。長編となっているが、五編の短編で構成されるオムニバスだ(七編あったが上映時間が長くなるためカットされた)。ソーランとオケサの二人が手製の蒸気自動車に乗り、世界一周してそれぞれの地で漫画映画を上映するという設定で、劇中で五編が上映されるという入れ子構造のオムニバスだ。


 制作順としては『おとぎの世界旅行』が先で、その後にテレビの『インスタント・ヒストリー』、短編『プラス50000年』となる。


 さらに一九六三年、『鉄腕アトム』が放映開始になった年には、『宇宙少年トンダー』という五分もののテレビ用アニメを一三本作ったが、スポンサーが付かず、放映されなかった。


 人気マンガ家で、私財を投じてアニメーション・スタジオを作った点で、横山隆一と手塚治虫は同じだった。横山隆一は手塚治虫にとってお手本であり、反面教師でもあった。


東映動画からの人材流出とフリーランス事情



 手塚治虫はテレビアニメに乗り出すと決めてからも、虫プロのスタッフたちに、「どう思うか」と聞いていた。「いいですね」「やりたいですね」との答えを得ると、喜んだ。

「やりたい」思いがあれば、「やれる」。この天才はそう考える。これまでもそうやってきた。月刊誌一〇誌に連載を持つという、誰もやったことのないことを平然とこなしてきた。もちろん、締切を守れないので編集者たちは苦労したが、原稿を落とすことはなかった。


 虫プロは映画部とテレビ部に分けられ、映画部は山本暎一がチーフで『ある街角の物語』を、テレビ部は坂本雄作がチーフで『鉄腕アトム』を作ることになった。


 四月には新設のスタジオが完成し、人員も増えていく。


 テレビ部に配属された杉井ギサブローは、東映動画の同僚だった林重行(一九四一~)を勧誘して虫プロに入れた。のちに林は「りんたろう」と名乗る。林重行は映画監督志望だったが、すでに映画会社の助監督試験は大卒でなければ受験もできなかった。映像の仕事に関わりたく、テレビCFのアニメーション制作会社に入ったものの、その会社が倒産したのでTCJに入り、経験を積んだうえで一九五八年に東映動画に入った。大塚康生、楠部大吉郎らの一年あとになる。東映動画に入っても原画や動画の仕事には興味がなく、演出をしたかったのだが、演出部には大学を卒業していないと配属されない。やる気をなくしていたところ、杉井に誘われた。虫プロならば、大卒であるかどうかは関係なく、演出に就ける。


 さらにスタッフを増やさなければならない。坂本と杉井は古巣の東映動画の知人に声をかけまくった。前後して、東映動画で原画を描いていた石井元明、中村和子らも入ってくる。みな、一期生で『白蛇伝』から関わっているメンバーだ。


 中村和子は満州で生まれ、一二歳で敗戦となり、山口県に引き揚げた。画家を目指し、山口県立宇部高等学校から女子美術大学洋画科に進学した。アニメーションとの出会いは、フランスの長編アニメーション『やぶにらみの暴君』(ポール・グリモア監督、一九五二年)だった。画家になれないときのために教員免許を取っていたが、一九五七年に東映動画の募集広告を見て応募し、採用された。一期生のひとりで、『白蛇伝』では第二原画となり、ヒロインの白娘と小青というキャラクターを描き、以後も女性キャラクターを担当することが多かった。


 中村は「和子」の名から「ワコ」と呼ばれていた。美人としても有名で、東映動画のアニメーターをモデルにしたNHKの朝ドラ『なつぞら』で(かん)()()しほりが演じた「大沢麻子(通称マコ)」のモデルとされる(同ドラマと実際のアニメ史及び実在の関係者との異同については、別に述べる)。


 中村も『安寿と厨子王丸』制作中に、会社への不満から辞めていた。その後は実験アニメーションを作っていた久里洋二らの「アニメーション三人の会」の仕事を手伝っていたが、坂本に誘われて、五月に虫プロに入った。東映動画在職中に、中村は広告代理店の萬年社に勤務する穴見薫と結婚していたので、戸籍名は「穴見和子」となるが、クレジットなどにはその後も「中村和子」で出ているので、本書でも中村和子とする。中村は虫プロに入ると『ある街角の物語』の班に入った。


 中村和子の夫、穴見薫(一九二四~六六)は、もう少し戦争が続いていたら特攻隊員として死んでいたという経歴を持つ。二一歳で敗戦を迎え、演劇青年だったので新劇の俳優座で制作の仕事をしていたこともあった。大阪の広告代理店萬年社に入り、東京支社企画部主任課長となっていた。


 穴見は広告代理店の社員でありながら、アニメーションに藝術としての可能性を感じていた。そこで東映動画の白川と楠部大吉郎を食事に誘い、力を貸してくれと頼んだこともあった。どういう体制で作ろうとしていたのかはよく分からないが、白川たちに東映動画を辞めて萬年社に入らないかというような話だったらしい。白川と楠部は辞める気はないからと断った。それなら誰か他にいないかと訊かれたので、辞めたばかりの中村和子を楠部が紹介した。穴見は中村にアニメーションを作らないかと持ちかけ、それがきっかけで結婚した。


 東映動画には『安寿と厨子王丸』に不満を抱いて退社した者がそれなりにいた。さらに労働組合が強くなり、それについていけないと思う者もいた。テレビCFでのアニメーションは増え続け、小さなスタジオがいくつも生まれていた。フリーランスになっても仕事があった。


 かくして東映動画から人材が流出した。一般の業界では最大手の正社員が給料も一番高く、小さな企業や下請け、フリーランスになると収入が減るものだが、アニメーションの世界では最大手の東映動画にいるよりもフリーランスになったほうが収入が上がる現象が起きていた。


 大塚康生には手塚治虫が自らアプローチした。大塚は後に『太陽の王子 ホルスの大冒険』や『ルパン三世』の作画監督として知られる。大塚は島根県で生まれ、八歳の年に山口県に転居し、山口県立山口工業学校土木科を卒業した。山口県庁の総務部統計課に就職したが、政治漫画家志望で、山口新聞に掲載されたこともある。漫画家になるには東京へ行かなければと、厚生省の採用試験を受けて合格し、一九五二年に上京した。厚生省では麻薬取締官事務所に配属されたが、麻薬取締官になったのではなく事務の仕事をしていた。働きながら絵の勉強をし、近藤()()(ぞう)や清水(こん)が結成していた新漫画派集団の事務所に行き、弟子にしてくれと頼んだが相手にされなかった。


 大塚のアニメーションとの出会いは、山口時代にソ連の『せむしのこうま』を見たときで、こういう仕事をしたいと漠然と思った。上京してから見たのが『やぶにらみの暴君』だった。中村和子、高畑勲、宮崎駿(はやお)らもこのフランスのアニメーション映画に感銘を受けている。ディズニーに心酔する手塚系のアニメーターとは、原点からして異なるのだ。大塚は図書館へ行き、アニメーションの技法の本を読んで独学していた。


 一九五六年六月二七日、大塚は「東京タイムズ」芸能欄で「漫画映画『白蛇伝』東映で制作決定」の記事を見て、新宿区若松町時代の日本動画社を訪れた。東映に買収されると決まっていたが、正式にはまだ日動だった時期だ。山本早苗、藪下泰司が応対してくれ、大塚が二五歳を超えていたので、「いまから学ぶのは苦労が多いから止めたほうがいい」とも助言してくれた。それでも試験として動画を描かせると、予想以上にうまかったので、ときどき練習に来るようにと言ってくれた。


 一二月に東映動画としての採用試験があり、大塚は日動の推薦ということで、臨時採用された。初任給は六五〇〇円で厚生省時代の三分の一になった。長編第一作の『白蛇伝』から動画スタッフになり、制作中に第二原画、第一原画と昇格した。手塚の『西遊記』でも原画のひとりだった。一方、一九六二年には労働組合の書記長になった。労組の役員としてともに闘うのが、高畑勲や宮崎駿だ。


 手塚治虫は大塚を虫プロにスカウトしようと、自宅に花束を持って頼みに行った。しかし大塚は断った。組合の書記長をしていたこともあるが、虫プロが標榜する「作家集団」という考え方になじめないのもその理由だった。


 坂本たちが知り合いに声をかけて勧誘するだけでは間に合わないので、虫プロは三月に、新聞に求人広告を出した。三〇〇名近くが応募し、七名が採用された。


「萬年社」への依頼



 中村和子は坂本から「穴見さんと仕事のことで話がしたい」と仲介を頼まれた。


 穴見は坂本や山本と会い、虫プロが『鉄腕アトム』をテレビアニメにしたいと考えていることを知った。もともと自分もアニメーションを作りたくて、東映動画の白川や楠部をけしかけたくらいなので、すぐにこの話に乗った。


 穴見は広告代理店にいるので、子ども向けの三〇分もののアニメーション番組という前代未聞の企画実現の困難さも分かっていた。テレビ局はスポンサーの付かない番組は作らない。スポンサーはテレビの放送枠が得られなければスポンサーとならない。たとえ手塚が自らテレビ局やスポンサーとなってくれそうな大企業をまわったとしても門前払いになるだろう。そこで広告代理店の出番となる。


 広告代理店に勤務している夫がいる中村和子が虫プロに入社したのが、ひとつの幸運だった。そして、その夫である穴見がアニメーションに興味と情熱を持っていたことはさらに幸運だった。


 おとぎプロの失敗は、いい作品を作れても売り方がうまくなかった点にある。虫プロは萬年社の穴見薫の協力を得て、テレビアニメの商業化に成功する。


 これまでの広告代理店はテレビ局とスポンサー企業の間に入り、放送枠を確保し、手数料のマージンを稼ぐのが仕事だった。まさに「代理店」である。しかし、『月光仮面』を制作していた(せん)(こう)(しゃ)のように、広告代理店として出発しながら、番組制作、テレビ映画の制作にまで乗り出している企業もある。広告代理店主導による番組制作が始まりつつあった。


 穴見は坂本や山本たちと議論を重ね、手塚とも会った。手塚は萬年社に、『鉄腕アトム』のテレビアニメのスポンサー探しとテレビ局への売り込みを依頼すると決めた。これが一九六二年七月のことだった。穴見は会社を説得して、虫プロ制作のテレビアニメの企画を通した。あとはテレビ局とスポンサー探しである。


 虫プロは八月に入ると、『ある街角の物語』が完成しつつあったので、萬年社からの要請もあり、スポンサーに見せるための『鉄腕アトム』のパイロット・フィルムの制作に入った。放映が決まった場合、そのまま第一回として使えるよう、前半の約一〇分を作ることにした。


「テレビアニメ」を生んだアニメーション革命



 手塚治虫は、『鉄腕アトム』のパイロット・フィルムを自ら演出と原画を担当すると宣言した。これが混乱の始まりだった。『西遊記』のときも最初にシナリオを作るのではなく、ストーリー・ボードを描くと言い出し、結局、時間切れで月岡や石森に頼むことになった。しかし今回はマンガという原作があり、いわば、それがシナリオと絵コンテを兼ねるから楽なはずだった。


 しかしそうはいかない。手塚が持ってきた「原画」は、これまで誰も見たことのないものだった。絵ではない。簡単な演技の指定と、カット番号と秒数が書かれたメモのようなものだった。たとえば「カット番号15 アトム驚く、三秒」というようなものだ。カット番号があるということは、最初から最後までのカット割りがなされているはずだが、それは手塚の頭のなかにしかない。全体が分かっているのは手塚だけだった。


 その「原画」とも言えないものを渡し、口頭で詳細を説明する。そうやって本当の原画ができていく。このやり方は、手塚がアニメ・スタジオに常駐していれば可能かもしれない。だが彼には週刊誌・月刊誌に連載しているマンガの執筆という本業がある。編集者たちが待ち構えている。いずれ破綻するのは目に見えている。


 それでも八月末には、一〇分の原画ができた。九月に入ると動画の作業である。


 ここからアニメーションの革命が始まる。虫プロでは『ある街角の物語』を、「動きの少ないアニメーション」という本末転倒な方法で作ろうとしていた。動画の数を少なくするというのが、この実験的藝術アニメのコンセプトであったと言っても過言ではない。そのために動かないポスターが主人公のアニメーションとなった。とはいっても、女の子とネズミなど、動くキャラクターもあるので全体としては、「動かない」という印象はない。『鉄腕アトム』はさらに動きを少なくした。東映動画で「絵を動かすことがアニメーションだ」と教えられてきたスタッフにとっては、驚きの連続となった。


 虫プロ流「リミテッドアニメ」として語られる技法が、この数か月で確立する。一秒間に撮影されるコマは二四コマなので単純計算で二四枚の動画が必要となるが、それを三分の一の八枚ですませる。一枚の動画を三コマ撮るのだ。東映動画でも、一枚ずつで一秒二四枚ではなく、一枚の動画を二コマ撮りにし一秒に一二枚だったが、それをさらに節約したのだ。その分、動きはぎこちなくなる。だがアトムはロボットなのだ。ぎこちない動きでもリアルに見えた。


 止め絵も多用した。撮影を工夫し、レンズを動かすことで、「動く絵」にできる。次に、たとえばアトムが話しているカットでは、口だけを動かした。顔全体も身体全体も動かない。目も動かない。「口パク」と呼ばれる手法である。このように動かす部分を限定し、動画の手間を省く。


 回を重ねるごとに効果が出てきたのがバンク・システムだ。いったん描いた動画は分類して保管し、使いまわしをすることにした。「アトム」に大分類し、次に「飛んでいる」「歩いている」「怒っている」「悲しんでいる」などに分類しておくのだ。「笑っている」シーンが別の話にも出てきたら、新たに描くのではなく、保管しておいたものを使う。これを手塚は「バンク・システム」と名付けた。長編アニメーションのような、その映画一回限りのキャラクターとは異なり、『鉄腕アトム』は連続ものなので、アトムやお茶の水博士は毎回出てくる。そのたびにすべて新たに描く必要はないという発想だった。

「口パク」に代表される最少の動きとバンク・システムは、虫プロが考案したアニメーションにおける新技法だった。動画の数を少なくするための苦肉の策ではあったが、これが新たな表現の確立につながり、日本独自の「テレビアニメ」となった。


 アニメーションは、本来は動かない絵を、連続してつなげることで動いているように錯覚させる表現だ。映画そのものがその原理で作られる。したがって、動きの面白さこそが見どころであり、アニメーターたちの腕の見せどころだった。それなのに手塚は、「極力、動かすな」と言う。動かなくても、キャラクターに魅力があり、ストーリーが面白ければ、視聴者は喜んでくれる──手塚はこう考えていた。マーケットリサーチをしたわけではない。十数年にわたり雑誌の上で過酷な競争をして勝ち抜いてきた過程で得た、子どもたちほど、「面白いストーリー」に夢中になるという経験からの確信だった。


 アニメーション・スタジオの社長と、原作者、アニメーション演出家が同一人物であるからこそ思いつき、実行に移せた革命だった。


 以後のテレビアニメは手塚治虫・虫プロを模倣する。模倣しなければ、三〇分のアニメーションを毎週作ることなどできないからでもあった。その模倣は、単に原画と動画の制作だけでなく、キャラクターとストーリーを人気マンガから借りてくるという、作品の構造にまで及ぶ。


 テレビアニメは、その出発点が「人気のあるマンガ家のマンガを原作とする」だったことから、以後もマンガと密接な関係を持ちながら発展していくのだ。


『鉄腕アトム』制作費の真実


『鉄腕アトム』のパイロット・フィルムは色彩、仕上げの工程を終え、九月半ばには撮影まで完了した。音楽は手塚が持っていたレコードのクラシック音楽を使い、声優は穴見が俳優座時代のつてで集め録音した。


 九月下旬に、『鉄腕アトム』のパイロット・フィルムは完成した。まず萬年社の社内に披露する。穴見は事前に上司である東京支局営業局次長の木村一郎に見せた。木村は「これは当たる」と思った。そして一本三〇万円という制作費を提示した。当時アメリカなどから輸入するテレビアニメが一分一万円という単価だったので、それにならった。しかし手塚は「この金額では難しい」と答えた。


 金額の話が続くのでここで当時の物価を確認しておこう。物価のなかには何十年も変わらないものもあれば、変動幅の大きなものもある。アニメーションの場合、制作費の大半が人件費なので、一九六二年の大卒初任給を調べると、一万八〇〇〇円前後だ。二〇二〇年の大卒初任給は二一万円前後なので、単純計算では一一・六倍となる。大雑把だが、六二年当時の価格を一〇倍すればイメージはつかめるだろう。


 外国製アニメはすでに本国で元を取っているので一分一万円でもいいが、虫プロはすべて新たに作るのだから、その値段では無理だ。東映動画が一九六三年に封切った『わんぱく王子の大蛇退治』は、八五分で制作費七〇〇〇万円とされている。一分あたり八二万円である。この計算でいくと、三〇分だと二四六〇万円かかり、三〇万円とは桁が二つ違う。


 萬年社内で穴見が「いくらなんでも三〇万は安い」と説得し、一二〇万円を提示した。しかし今度は手塚が「五五万円でいいです」と言い出す。実写のテレビ映画の制作費が三〇分もので五〇から六〇万円だと知り、それと合わせると言うのだ。実写よりもアニメーションのほうが手間がかかるのでコストは高くなるはずだが、「それでいい」と言う。


 手塚がダンピングしたのは他社が参入できないようにするためだった。いずれは参入してくるとしても、当分の間は独走したかったのだ。少なくとも、「日本初」の栄誉は得たい。


 一本五五万円で話はまとまったが、手塚の知らないところで、穴見と手塚のマネージャーの今井とが話し合い、「いくらなんでも五五万円では無理だ」となった。そこで手塚には黙って一〇〇万円を上乗せすることになった。手塚が半ば自慢げに「五五万円」と言いふらすので、この価格が独り歩きしているが、実際は「一五五万円」だったのだ。それでも安いと言えば、安い。


 手塚治虫公式サイトでは、アニメ『鉄腕アトム』についてこう書かれている。

〈日本最初の長編テレビ用連続アニメとして制作されたこの作品が、現在にまで至る、日本のアニメ文化隆盛の礎を築きました。また同時にこの『アトム』の成功によって、アニメは低予算で作っても儲かる、というテレビ局の認識を生んでしまい、現在にまで至る、アニメーターたちが低賃金で殺人的スケジュールに追われる、というマイナスの現実も産み落とすこととなったのですが、『アトム』当時は「安く作るから、とにかく作らせてくれ」という作品を世に送り出したい切実な気持ちがなければ、とてもじゃないけれど「連続アニメ」などに関心を持ってくれるスポンサーはいなかったのです。十万馬力の少年ロボットが七つの力で悪漢を退治して行く姿に、当時の子供たちは熱狂しました。〉


 自ら「アニメは低予算でも儲かる、というテレビ局の認識を生んでしまい」と認めている。


 手塚は「赤字はマンガの原稿料で埋める」と公言していた。前年の手塚の所得は九〇〇万円ほどで、高額所得者リストに載るほど稼いでいた。しかし、それだけでは赤字は埋まらない。手塚は版権ビジネスと海外へ売ることを考えていた。それこそが、横山隆一が考えもしなかった点だった。東映の大川博も、海外へ売ることは考え成功していたが、版権ビジネスまでは考えていない。東映動画の長編アニメーションは一作ごとに画風も異なり、商品化できるキャラクターもない。その点では、大川はディズニーを学んでいなかった。


テレビ局・フジテレビ、スポンサー・明治製菓で決定


『鉄腕アトム』の予算が決まったところで、穴見はスポンサーを探した。子どもが見るのだから、子ども向けの商品を作っているメーカーがいいだろうと、菓子メーカーが候補に挙がった。当時の菓子業界で売上トップは森永製菓だ。萬年社は森永へ売り込みに行った。


 パイロット・フィルムを見た森永製菓の担当者は乗り気になった。森永の宣伝予算は潤沢にあった。金額も問題ない。しかし前人未到の国産初の毎週三〇分の連続アニメーションが、東映動画のような大手ならともかく、マンガ家が始めた小さなプロダクションに可能なのかと不安視し、決断をためらった。放送開始となってから、「できません」となって中断したら森永の信用問題にもなると危惧したのだ。


 森永の意向がはっきりしないので、萬年社は明治製菓に持って行った。役員会でパイロット・フィルムが披露されると感触がよく、その翌日にはスポンサーになると連絡してきた。これでスポンサーが決まった。次はテレビ局だ。萬年社は最大手の日本テレビへ持って行った。こちらもいい感触で、話は上層部にまでいき決定寸前となった。


 そのころ、東映動画の白川が虫プロに来て、手塚から『鉄腕アトム』のパイロット・フィルムを見せてもらった。白川は、これは当たると思った。そして手塚に「テレビ局は決まっているのか」と訊くと、「萬年社に任せてある」と言う。どこかの局に決まっていたのなら、そう言うだろうから、まだ決まっていないに違いない──白川はそう思った。


 白川の弟・文造はフジテレビに勤務していた。白川はすぐに文造に電話をかけて、「手塚さんが作った『鉄腕アトム』を絶対に獲得しろ、萬年社が扱っている」と助言した。白川文造はさっそく萬年社にアプローチした。幸いにも日本テレビとはまだ契約にはいたっていなかった。日本テレビ側も、前代未聞のプロジェクトに不安を抱き、決めかねていたのだ。フジテレビは「話を持って来てくれれば即決する」と言う。

『鉄腕アトム』の放映権はフジテレビが得た。この過程では、日本テレビとフジテレビ、萬年社、さらには明治製菓とその子会社なども含み、オモテには出せないことがあったようで、いくつかの噂が活字になっている。成功した大きなプロジェクトほど「あれはオレが全部仕切った」「あれには裏があって」と言い出す人は多い。もはや真実は分からないので深入りはしない。


 重要なのは、フジテレビが『鉄腕アトム』で得たのは放映権だけで、著作権関連はすべて虫プロが持つという契約だったことだ。虫プロはフジテレビの下請けではなく対等なパートナーだった。その後のアニメ制作会社の経営が厳しくなるのは、著作権を持てず、一本いくらで受注する下請けになってしまうからだ。契約は半年分二六本。放映は一九六三年一月一日からと決まった。毎週火曜日一八時一五分からだ。


週に一本上げるための「ローテーション」体制


『鉄腕アトム』が一九六三年一月に放映開始とほぼ決まった段階で、虫プロは二回目の社員の公募に踏み切った。今回は八名が入社し、『鉄腕アトム』に投入された。


 手塚治虫は自分も動画を描くつもりでいる。実際、描かせたら、早い。しかし手塚にはマンガの仕事がある。アニメに専念できない。連載マンガの世界は競争が厳しい。手塚は別格扱いになってはいるが、いったん連載を降りるとその雑誌に復帰できない可能性が高く、枠を手放したくない。それに、虫プロの赤字を自分の原稿料や印税で埋めるつもりなので、マンガの仕事はひとつでも多いほうがいい。アニメのためにマンガが必要という構造はこの後も続く。

『鉄腕アトム』第一話は、前半はパイロット・フィルムをそのまま使うので、後半だけを作ればいいので楽なはずだった。一〇月に入ってから原画作業が始まり、二八日に終わった。第一話は総計四〇〇〇枚の原画を描き、二か月かかった。もしフルアニメーションで二五分作ったら、二コマ撮りにしても一万八〇〇〇枚を必要とする。それを四〇〇〇枚ですませた。しかし、それでも二か月もかかった。もっと減らす必要がある。


 手塚と坂本や杉井は、現有の動画スタッフがフル稼働して一週間に何枚描けるのか計算し、一八〇〇枚とはじき出した。であれば、一話二五分の動画を一八〇〇枚ですむように、工夫していくしかない。撮影を工夫すれば、一枚の絵でも何秒も見せることができるはずだ。「省略」を手抜きではなく、「新しい表現」と考えればいい。机上の計算ではあるが、計算だけはできた。


 従来のアニメーションとは異なる、「虫プロアニメ」「手塚アニメ」とでも呼ぶしかない独自のアニメーションができていく。「動きで見せるもの」ではなく、「ストーリーを見せるもの」である。だが、その独自のアニメーションは、「手塚アニメ」「虫プロアニメ」という呼称が確立する前に、『鉄人28号』以降の後発組が真似したので、「テレビアニメ」という普遍的な名称になるのだ。

『鉄腕アトム』各話の脚本、演出リストを見ると、最初の四九話までの「脚本」は空白になっている。手塚のマンガをそのまま使うので脚本を作らなかったのだ。もっとも途中から、虫プロ社内でマンガからシナリオに起こす者はいたようだ。「演出」も最初の三話と第五話は手塚治虫となっている。マンガから手塚が原画のもととなるメモを描き、さらに口頭で指示して完璧な原画にしていくという方法だ。前述の通り、手塚はアニメに専念できないため作業が(はかど)らない。このままでは毎週一本などとても無理だ。


 そこで坂本、杉井、山本、石井、紺野たちがひとり一本ずつ「演出」となり、ローテーション方式で制作していくことになった。手塚もその演出陣のひとりとして月に一本担当する。ひとりが月に一本、原画まで責任を持って描き、動画班は毎週一五〇〇枚から一八〇〇枚の動画を描き、撮影、現像、編集とまわしていく。こうすれば、週に一本も可能なはずだった。


『ある街角の物語』上映会にいた学生



 一九六二年一一月三日、文化の日、手塚治虫は三四歳になった(当時は公称三六歳)。

『鉄腕アトム』の制作に追われる一方で、虫プロは一一月五日と六日、銀座の山葉ホール(現・ヤマハホール)で第一回作品発表会を開催した。


 上映されたのは『ある街角の物語』と『鉄腕アトム』第一話、そして三分の短編『おす』の三本だった。『おす』は原案・演出が山本暎一、構成と原画が紺野修司で、手塚は加わっていない。作家集団であると示すために、手塚色のないものも必要だった。『鉄腕アトム』の上映が終わると、万雷の拍手となった。ヒットの手応えを感じた。


 しかし、客席にいた学習院大学のある学生は、『鉄腕アトム』はともかく、『ある街角の物語』には違和感を抱いていた。後年、その学生はこう語っている。

〈『ある街角の物語』という、虫プロが最初に総力を挙げてつくったというアニメーションで、バレリーナとヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散りぢりになりながら蛾のように火の中でくるくると舞っていくという映像があって、それをみた時にぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。/意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の“神の手”を感じました。〉


 学生の名は「宮崎駿」という。


 宮崎がどう思おうと、『ある街角の物語』は評価され、一九六三年度の第一七回毎日映画コンクールで、この年から創設されたアニメーションを対象にした大藤信郎賞を受賞し、さらに芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞を得た。


殺人的スケジュール下での不眠不休の制作


『ある街角の物語』が完成したので、虫プロの映画部スタッフは、テレビ部を手伝うことになった。結局、映画部、テレビ部という二部体制は半年で終わった。

『鉄腕アトム』放映開始へ向けて殺人的スケジュールとなっていた一二月に入社したのが(いし)()(あらし)だった((ばん)()(いち)(ろう)の筆名も)。石津は一九三八年に福島県いわき市で生まれ、演劇を志していた。日本大学藝術学部に入るが中退、友人と劇団を立ち上げたが失敗し、経済的にも食い詰める。そんなときに虫プロの「アニメーション映画スタッフ募集」という広告を見て応募した。アニメーションの知識はなく、虫プロが手塚の会社だとも知らずに入った。入社と同時に『鉄腕アトム』の制作進行となり、徹夜の連続となる。後に演出と脚本を担う文芸演出課へ異動する。


 一本作るのに一か月はかかるとしたら、一月の放映開始までには、少なくとも五本のストックが必要と見込まれた。だが一一月になっても、第一話しか完成していない。第二話も四〇〇〇枚の動画が必要となり、六週間かかっていた。


 動画作業は慣れてくると効率も上がってくる。完璧なシナリオと完璧な絵コンテがあれば、原画もすぐに描けるのだが、『鉄腕アトム』ではシナリオも絵コンテもなく、手塚がマンガ執筆の合間に描くメモのような原画が散発的に届くだけだった。これでは進まない。スケジュール通り進まない最大の要因が手塚治虫だった。マンガが忙しく、原画が描けないのだ。


 このまま手塚が毎回「演出」したのでは破綻する。ひとりで毎週は無理だった。坂本雄作は手塚と直談判し、手塚、坂本、杉井ギサブロー、紺野修司、山本暎一らで分担し、ひとりが毎月一本の責任を持つ体制に変えた。第四話までは手塚がそのまま演出し、第五話は坂本、第六話は杉井、第七話は山本と、決めていく。


 一一月一五日、ようやく手塚による第三話の原画ができた。第一話と第二話は編集まで終わっても、音楽や効果音、そして声優によるセリフの録音作業が残っていた。音楽は『ある街角の物語』を頼んだ高井達雄に依頼され、テーマ曲ができていた。第一話と第二話のダビングは一二月半ばに終わった。放映開始までに五本は完成させるはずが、まだ二本しかできていない。


 一二月一一日、虫プロダクションは株式会社となった。手塚は資本金二〇〇万円を全額出資し、代表取締役となった。マネージャーの今井が専務取締役だ。


 一二月二〇日、出来上がった第一話『アトム誕生の巻』と第二話『フランケンの巻』を、宣伝のために日比谷公会堂で試写したが、その段階ではエンディングはまだできていなかった。


 二八日が仕事納めのはずだった。第三話『火星探検の巻』は撮影、現像、ラッシュ編集までは終わっていたが、録音スタジオが年末年始は休みなので、年明けの五日に録音する予定になった。その次の第四話『スフィンクスの巻』は手塚の原画が遅れ、以後の作業が進んでいない。一方、坂本が演出する第五話『ゲルニカの巻』は原画ができているので、こちらの動画を先に進めることにし、すでに四分の三が終わっていた。一話完結ものなので、放映の順番を変えても大丈夫だ。


 虫プロは、世間が仕事納めとなっても不眠不休が続く。その作業は、大晦日の夜になってもまだ続いていたと伝説になっている。



第六章 トキワ荘再結集「スタジオ・ゼロ」 ──一九六三年


「アトム・ショック」



 一九六三年一月一日火曜日一八時一五分。フジテレビとその系列局にチャンネルを合わせた全国の家庭のテレビから、「空をこえて」で始まる、『鉄腕アトム』の主題歌が流れた──と書いてある本を見かけるが、それは間違いだ。この段階では主題歌はまだできていなかった。音楽だけが流れるオープニングだったのだ。谷川俊太郎が作詞した歌詞で主題歌が録音された日と、何月何日放映の回から歌詞付きのオープニングになったかは記録がなく、分からない。八月一〇日発売の「少年」九月号に歌詞が掲載されているので、逆算すると七月半ばには歌詞ができていたと思われる。七月三〇日放映の第三一話からではないかというのが有力な説だ。

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