●実存主義
●行動主義
●社会学主義
●構造主義
●ポスト・モダニズム
実存主義は繰り返す
東大の院生をしている弟子の一人が「このごろは大学では実存主義が流行っているんですよ」と言う。「実存主義ってあのサルトルの……」「そうです」。すずしく言ってのける彼の口元を見て、しばし絶句。
歴史は繰り返す。実存主義(existentialism)は私が高校生のとき、数十年も前に流行った主義だ。私の同級生はこれにイカレて映画を見ても本を読んでも「実存、実存……」と口走っていた。「すべてが実存で説明できるので怖いくらいだ」。それはそうだろう。主義に取り憑かれると、世界のすべてがそれに合わせて見えてしまう。こういう経験をしたことがない人は、主義の魔力に免疫がない。だから、「この教えを知ればすべてが分かるんですよ」なんてちゃちな新興宗教の教えに引っかかってしまう。
そもそも人間の本質など「これだ!」などと規定できない。だから、何をすべきだという倫理道徳も出てこない。これが実存主義の教えだ。「実存は本質に先立つ」(J・P・サルトル『実存主義とは何か』)。だから、いまある自分のほうが大切だ。自分はある状況の中にいるが、その中で思ったように行動してみる。そうすれば何か可能性が開ける。これを「被投的投企」などという。これをしちゃいけない、あれをしちゃいけない、などと周囲は文句を言えない。その人の選び取った行動なのだから、それだけで十分じゃないか。私の心は私のもの。誰にも文句は言わせない。まことに潔い考え方だ。
実存主義=自分が選んだ行為は、自分が選んだということだけで尊重すべきだ
『異邦人』(カミュ)の世界
実存主義のヒーローが、小説『異邦人』の主人公ムルソーである。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」というハードボイルドな文章から始まる。葬式のあと、彼はガールフレンドとベッドをともにし、友達と笑い興じる。次の日、砂浜を歩いていて、アラブ人と(舞台はフランス植民地だったアルジェリア)いざこざを起こし、気がつくと彼は拳銃で相手を殺している。裁判では、いっさい自己弁護をせず、極悪非道の殺人者として死刑を宣告される。控訴を勧める弁護士を断り、死刑を受け入れる。ストーリーも極端だが、行動もほとんどヤケクソとしか思えない。