『日本を創った12人』
[著]堺屋太一
[発行]PHP研究所
⦿「財界」を創った男
渋沢栄一は、明治時代に非常に多くの企業に関係し、日本の近代的な産業のほとんどすべてを興した、といってよいほど大活躍をした人物である。
渋沢が関係した業種は、銀行から鉄道、海運、メーカー、商事など、ほとんどあらゆる分野にわたっており、生涯に約五百の大企業を創り上げたとされている。
その意味で、渋沢栄一こそは日本の資本主義の先駆者であったが、それだけに留まらない。より重要なのは、外国には例のない日本独特の「財界」という〈かたまり〉を創った点である。
例えば、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや自動車王のヘンリー・フォードなどは巨大な企業を生み育て、強力な財団を残して文化や学術にも貢献した。しかし、「財界」という経営者が集団として言動するような場を創ることはしなかった。イギリスのロスチャイルドもドイツのクルップもそうである。
その中で日本にだけ早くから「財界」「実業界」という経営者集団ができ、業界談合体制が育った。渋沢栄一が何百もの企業に関与し、共同出資の環境を創り上げたからである。そうした独特の風土を持つ日本的資本主義の創始者として、渋沢栄一にはきわめて大きな存在価値があり、現代の日本にも大きな影響を残している。まさしく“日本を創った十二人”の一人にふさわしい人物といえるだろう。
渋沢栄一は、天保十一(一八四〇)年に生まれ、なんと昭和六(一九三一)年まで生きた。数えで九十一歳、当時としては稀なる長寿を全うしたのである。
そもそもの出身は武蔵の国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)で、実家は大百姓だったといわれている。今は百姓を農家とか農民といい換えたりしているが、これは誤解を生む。農家とか農民とかいえばコメ作りを主に、野菜作りや牛飼いをして食糧は自給している家族を想像するだろうが、徳川時代の百姓はそれに限らない。実は、渋沢栄一の実家も養蚕と藍玉の製造を主に、商工業を手広く営んでいた。
養蚕も藍玉も換金商品である。自らも製造すると同時に、周囲からも集荷し販売する産地問屋だったのだ。
したがって、渋沢の生家は、農家というよりも商家と考えた方がよい。その上、村人を相手の質商も営んでいたというから、地域の顔役でもあったろう。渋沢栄一は、農・工・商にまたがる家業の中で少年時代を送ったわけだ。経済的には豊かな環境だったし、多くのことを学べる条件でもあったようである。
渋沢が十四歳の頃、ペリー提督の率いる黒船が浦賀沖に来航し、日本は国論を二分する大騒ぎになった。
二十二歳の時、江戸に出た渋沢は、外国人を打ち払えという攘夷論者に加担、その運動でかなり熱心に走り回っていた。横浜の外国人居留地焼打ち計画という過激な攘夷運動にも加わったというから、血気盛んな青年の間で流行した国粋主義者または愛国主義者の一人だったことは確かだろう。
この横浜外国人居留地焼打ち計画の首謀者は清川八郎という人物だが、清川は新撰組を提唱したことで知られている策士だ。幕末の混乱に乗じていろいろなことを画策したが、実行の途中で提唱していた目的が変わったりして、結局は暗殺されてしまう。決行寸前まで至っていた横浜の外国人居留地焼打ち計画が挫折したのも、清川の性格によるところが大きい。
それで京都へ逃れた渋沢は、あと四年で明治という元治元(一八六四)年に、徳川御三卿の一つ、一橋家の御用人に採用された。そしてその一橋家から慶喜が将軍になったために、渋沢も幕府の中核に入る形になったのである。
明治に活動した人々の大部分とは逆に、渋沢栄一は、最後の段階で潰れかかった幕府の家来になり、慶応三(一八六七)年には将軍慶喜の弟の民部大輔徳川昭武に随伴してパリ万国博覧会に赴き、欧米を見学することができた。ところが、その旅行中に明治維新が起こり、幕府は潰れてしまう。
この時のパリ万国博覧会には佐幕倒幕双方の人材が集まっていた。のちに渋沢と肩を並べる明治財界の大物となる五代友厚も薩摩藩の代表の一人として万国博にきており、虚々実々の外交戦を展開した。
明治元(一八六八)年、帰国した渋沢は徳川家と共に静岡に移住し、一時、駿府藩の勘定組頭、つまり藩札発行担当者となったりもしたが、それはごく短期間のことである。
⦿まず金融制度を創る
パリから帰国後、最初の仕事は、徳川家の領地であった静岡に政府から五十万両(まだ当時は両であった)の太政官札を借り入れ、日本で最初の株式会社ともいうべき合本会社「商法会所」を設立したことである。渋沢はパリ万国博覧会の時に、滞在したヨーロッパの状況を見て、会社の創り方に非常な興味を覚え、それを早速に実行してみたのである。
では、商法会所とは一体、何をする会社だったのか。実は、業務内容もはっきりしないまま、政府から借り入れた資金で、とにかく会社を創るという発想だったらしい。そこにこそ、のちに活躍する渋沢の思想的根拠、考え方がよく出ている。つまり渋沢栄一が興味を持ったのは、金儲けでも産業育成でもなく、組織を創ることだったのである。
しかし、渋沢は静岡に留まらず、すぐに職を辞して翌明治二年には新政府の大蔵官僚になった。人材不足の新政府は、幕臣も歓んで入れた。
明治四(一八七一)年、通貨がそれまでの両から円に替わる。翌明治五年、商業上の金融機関の設立と政府発行の不換紙幣の焼却処分とを目的とする国立銀行条例が制定された。それに伴い、明治六年には大蔵省を退官した渋沢が、まず「第一国立銀行」の設立を手掛け、翌七年にはその頭取となった。
当時から渋沢は、金融、通貨、会社機構の問題に関する第一人者と思われていた。したがって、国立銀行を設立するという時は、まず渋沢に声が掛かったのである。
これが彼の運命を決定した。以後、多くの会社を創る契機となったからだ。
渋沢栄一が創立に関与したのはまず銀行である。最初の第一国立銀行だけではなく、各地に続出するナンバー銀行の多くにも関与した。
のち、明治十五(一八八二)年に日本銀行が創立されるまで存続した明治初期の国立銀行というのは、民間企業でありながら発券銀行として、各銀行が紙幣を発行する特権を与えられていたものを指す。「国立」といっても国の出資や保障があったわけではない。