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再起は何度でもできる
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ルポ・エッセイ
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第三章 大一番に強いメンタル

『再起は何度でもできる』
[著]中山雅史 [発行]PHP研究所


読了目安時間:32分
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 一九九〇年春、僕がヤマハ発動機に入社しサッカー部に入った当時は、まだJリーグがなく日本リーグ時代だ。


 会社での配属先は人事部。中間管理職の人のための教育採用グループという部署で、最初は書類のコピーや封筒のサイズ合わせなどをした。たいした仕事もしないのに、好きなサッカーをやって給料をもらえて生活が成り立つ。しかも、それを応援してくれる人もいる。「こんな素晴らしい環境はないな」と、僕は幸せでしょうがなかった。


 会社で仕事をするなかで、サッカーでは見られない人間の一面を見たような気もした。


 僕の部署には、中間管理職の人たちが受けたセミナーのレポートなどが提出されてくる。期日までに提出物が届いていない人がいると、新人の僕が電話で催促した。

「お忙しいところすみません、人事部の中山です。先日のセミナーのレポートがまだ届いていないんですが」と言うと、たいていの人は「申し訳ない、すぐ提出する」と答えるが、なかには「え? 出してなかった?」と、言う人もいる。業務が多忙でうっかり忘れてしまったのかもしれない。理由はどうであれ、そういう人の機嫌を損ねないようにしつつ、提出物を回収する。


 社会人としてこうした勉強もしながら、僕は一九九三年のJリーグ開幕を一日千秋の思いで待っていた。当然ながらヤマハ発動機は、初年度からのJリーグ参戦に名乗りを上げている。そこで戦っていけば、自分の努力次第で日本代表に入れるかもしれない。


 ところが、九一年二月に発表された参加一〇クラブのなかに、ヤマハ発動機の名前はなかった。


 これからどうすればいいんだろう──。


 二十三歳の僕は、人生の大きな岐路に立たされた。


 九三年にはW杯アメリカ大会の予選があるので、今から自分の存在をアピールしていかないと日本代表を逃してしまう。ここで代表候補に名を連ねられなければ、もう一生代表に選ばれずW杯にも挑戦できなくなる、と僕は思っていた。


 では、どういう選択をすれば代表への道が開けるのか──。


 考えられる選択肢は二つ。Jリーグに参加が決まったクラブへの移籍か、ヤマハ発動機に残って自分の存在をアピールしていくかだ。


 Jリーグ入りを希望する選手のなかには参加が決まったクラブに移った人もいた。実は、僕も清水エスパルスから声を掛けていただいた。ただ、エスパルスはまだチームがなかったので、Jリーグ開幕までの一シーズンは公式戦がまったくない状態になる。そのため、エスパルスに移籍した選手は一年間ブラジルに留学していた。


 自分がこの選択をした場合、ブラジルで代表入りに向けてインパクトのある活躍ができるかどうかわからない。仮に活躍できたとしても、日本にその情報がどれだけ届くかは未知数だ。今ならインターネット上の動画でリアルタイムに海外の情報が発信されるが、当時は新聞や雑誌などで紹介される程度だった。


 熟考の末、僕はヤマハ発動機に残ることを決めた。すべては日本代表に入るためだった。


 自分を伸ばしてくれるのはゲームの緊張感しかない。互いに性格やプレースタイルをよくわかり合っている今のチームメイトと日本リーグを一シーズン戦おう。そこで活躍して自分の存在をアピールすれば日本代表入りにつながるはずだ──。


 この時も僕は逆算思考をしていた。


 ヤマハ発動機の一員としてJリーグに参加したい気持ちももちろん強かったが、最大の目標は日本代表入り。その場所に立つためにいちばん行きやすいルートを逆算で考え、リスク面も勘案したうえで決断を下したのだった。


 僕にとって、Jリーグでプレーすることと日本代表に入ることは、どちらも捨てがたい夢だった。


 清水エスパルスのオファーを受けていればJリーグでプレーする夢はすぐに叶ったが、当時は日本代表に選ばれて世界と戦うことが最優先だと考えていた。


 だから、一九九一〜九二年シーズン(当時は秋春制)の日本リーグの途中で左肩の(じん)(たい)を切った時、手術は受けなかった。手術をすると三カ月はグラウンドに立てないと医師に言われたからだ。それでは何のためにこのチームに残ったかわからない。腕を吊ったまま練習を続け、三週間ほどすると多少の痛みはあっても接触プレーがある程度できる状態になったので、試合に復帰した。


 このシーズン、僕は一五得点で得点ランク二位(日本人で一位)でベスト11(イレブン)に選出してもらった。ただ、世間の関心はJリーグ開幕に向いていて、さほど注目されなかった。そして僕自身、得点数にもの足りなさを感じていた。日本リーグのトップチームの試合には、日本代表監督に就任したハンス・オフトが視察に来て、代表候補になりそうな選手をチェックしているはず。そこで生き残っていくには、これまで以上にFWとして数字を追求しなければいけなかったからだ。


 幸い、オフトは僕に目を留めてくれたようで、日本代表に選ばれた。Jリーグの一つ下のカテゴリーのJ1(JFL1部)から代表に選ばれたのは、僕と(よし)()(みつ)(のり)さん(ともにヤマハ発動機)の二人だけだった。しかも、僕はFWとして呼ばれたのだ。


 チームではFWとして戦っていたので当然といえば当然なのだが、それまでは日本B代表などにディフェンシブなポジションで呼ばれることが多く、オフェンシブなポジションであってもサイドプレーヤー的な仕事を要求されていた。それだけに、日本代表という最上級のカテゴリーにFWで呼ばれたことが嬉しかった。


 その一方で、Jリーグ元年の九三年には悔しさも味わった。


 五月十五日のJリーグ開幕日、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合を寮のテレビで観戦した。会場の国立競技場は、五万九〇〇〇人以上もの観客で埋め尽くされていた。

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